イタリア現代史

2013年5月26日 (日)

アンドレオッティ元首相

2013年5月6日、元イタリア首相で終身上院議員のジュリオ・アンドレオッティがローマの自宅で死去した。94歳だった。

アンドレオッティの訃報に際して、前首相のベルルスコーニは「晩年のアンドレオッティは左翼系司法関係者の攻撃にさらされていた」とコメントした。ベルルスコーニとアンドレオッティを比べると、政治家としての特徴や性格、政治的傾向はまったく異なるが、ともに権力を握り何度も首相になりながら司法当局から起訴されたという共通点を持つ。脱税と未成年売春で有罪判決を受けたベルルスコーニは、ことあるごとに裁判官を「左翼に支配されている」と攻撃するが、アンドレオッティについても「左翼に迫害されていた」とコメントしている。「左翼はアンドレオッティの人格を攻撃してきた。しかも、自分たちの敵を悪魔と見なし、司法制度を使って迫害するという、文明国家にはあるまじきやり方での攻撃だった。私は、彼らのやり方をよく知っている。憎悪と妬みにかられた左翼は、選挙では勝てない相手に対しても同様に攻撃し続けているのだ」

一方、ナポリターノ大統領は、かつてベルリングエル書記長時代(1970年代後半にユーロコミュニズムを標榜しキリスト教民主党との「歴史的妥協」を押し進め、共産党の最盛期を演出した)の共産党執行部幹部として、当時のキリスト教民主党の首相であったアンドレオッティとやりあっていた。特に1976年、共産党を含めた挙国一致内閣を作り上げる過程では、お互い思想的にはまったく相容れない両党の代表として交渉を重ねてきた。そのナポレターノ大統領は、アンドレオッティの死に対して「歴史の判断のみがアンドレオッティの正確な評価を定めることができる」と簡潔に述べるにとどめた。

アンドレオッティはとかく毀誉褒貶の激しい政治家であり、第二次世界大戦後のイタリアを象徴する人物でもあった。1946年、27歳の時にキリスト教民主党から憲法制定議会(1946年6月から1948年1月までイタリア共和国憲法を制定するために選出された暫定議会。1946年6月、王制か共和制かを選択する国民投票と同時に選挙が行われた)に立候補して以来、67年にわたって国会議員を努めた。その間、首相には7回、外務大臣や防衛大臣を始めとする国務大臣には21回選出されている。

アンドレオッティを政治の世界に導いたのは、ファシズム時代に政権から弾圧されヴァチカン図書館に匿われていたデ・ガスペリと、カトリック大学連盟(FUCI)を担当していたモンティーニ枢機卿であったと言われている。

デ・ガスペリは、戦後40年以上に亘って与党としてイタリアの政権を担うことになるキリスト教民主党(DC)の創設者の一人で、1945年から53年までの8年間は、首相を務めた。第二次大戦後の混乱期に、左翼政党が強いイタリアが西側陣営の一員としてとどまり経済発展できたのは、デ・ガスペリのリーダーシップに負うところが大きかった。アンドレオッティの才能に目をかけたデ・ガスペリは(「アンドレオッティはすべてを可能にする」と評価していた)、当時20代のアンドレオッティを官房副長官に抜擢する。デ・ガスペリは、西側陣営に属し共産党を押さえ込むことこそが、壊滅状態に陥っていた戦後のイタリアが生き残ることのできる唯一の道だと信じていたが、その考えはアンドレオッティにも受け継がれている。

一方、デ・ガスペリにアンドレオッティを起用するよう推薦したのはモンティーニ枢機卿で、彼は後に(1963年)教皇パウロ6世となる。パウロ6世は第2ヴァチカン公会議を成功に導くなど評価が高い教皇であったが、一方で、特に晩年は、なにかと黒い噂がつきまとっていた。1970年代から80年代にかけて教会関係の金融機関が相次いで破綻し、ヴァチカンばかりかイタリア財政会を揺るがすスキャンダルへと発展するのだが、その破綻事件を引き起こしたミケーレ・シンドーナやロベルト・カルヴィを重宝したのが、パウロ6世であった。(彼らと密接に関わっていたポール・マルチンクス大司教をヴァチカン銀行総裁に推薦したのもパウロ6世である)

教会の金をつぎ込んだ挙げ句に銀行破綻事件を起こしたシンドーナは、サルバトーレ・リイナをはじめとするマフィアのマネーロンダリングを行っており、そのシンドーナを助けていたのが、ヴァチカン銀行の主要取引先アンブロジアーノ銀行頭取のロベルト・カルヴィであった。彼らはまた、反共の旗印のもとイタリア内外で陰謀事件を引き起こしたフリーメーソン・ロッジP2の頭領リーチョ・ジェッロとも懇意であった。(1981年に「P2事件」と呼ばれる、イタリア政界全体を巻き込んだスキャンダルを引き起こすことになる)

歴代の教皇と個人的な関係を築いてきたアンドレオッティは、教会の資産を管理していたシンドーナやカルヴィ、ジェッロらとも親交を持つようになる。そして彼らとの密接な関係によって(アンドレオッティはシンドーナを「リラの救済者」と称えた)、70年代から90年代にかけてイタリアで相次いで起こった陰謀事件にアンドレオッティは深く関わっていると疑われることになる。1982年6月17日、アンブロジアーノ銀行を破綻させた元頭取のロベルト・カルヴがロンドンで首を吊って死亡しているのが発見された。その4年後、次々と銀行を倒産させて米国で逮捕され、逃亡した後にイタリア国内で再び捕まったシンドーナが、獄中で服毒死する。彼らの死はマフィアが直接関係しており、その背後にアンドレオッティがいたのではないかと疑われているのだ。

マフィアとの関係のため、アンドレオッティは実際に起訴されている。1982年に国防省警察の反マフィア特別チームを率いていたダッラ・キエーザ将軍がシチリアで暗殺され、10年後の1992年には反マフィア特別判事のファルコーネ判事が、同じくシチリアで暗殺される。これらの事件についてアンドレオッティが絡んでいたとして、一時は有罪判決も受けている(最終的な判決は無罪)。さらに、1999年には、検察は別件のマフィア幇助罪でアンドレオッティに終身刑を求刑する。これは1979年、政治ゴシップ雑誌『OP』の編集長ミーノ・ペコレッリが暗殺された事件に関するもので、ペコレッリは、アンドレオッティとマフィアとの関係を特集した最新号を刊行する直前に殺害されていた。この事件も最終的には2003年に破毀院(最高裁)が無罪を言い渡すのだが、その裏で何らかの取り引きがあったと噂されることになる。

アンドレオッティの黒い噂はマフィアとの関係だけにとどまらない。1979年にアルド・モーロ元首相(友人でもあり、キリスト教民主党内の対立する派閥の領袖であった)が極左テロリスト集団「赤い旅団」に誘拐された際には、モーロが監禁先からの手紙で助けを求めたにもかかわらず、アンドレオッティはテロリストとの取り引きを拒否して、モーロを見殺しにしたと言われている。また、1970年に元サロ共和国(ムッソリー二がナチスに救出された後に北イタリアに作った傀儡政権)海軍将校ボルゲーゼが起こしたクーデター未遂事件も、CIAとともにアンドレオッティが関与していたとされている。このように相次いで起こった不可解な事件に、常に自分の名前が取りざたされることについて、アンドレオッティは皮肉を込めてインタビューに答えたことがある。「まだ若すぎた頃に起こったポエニ戦争を除いて、イタリアで起きたあらゆる事件の責任は私にあるようだ」

アンドレオッティはこのようなアフォリズムを多用し、皮肉とユーモアに満ちた受け答えをする政治家であった。パオロ・ソレンティーノ監督による映画『イル・ディーヴォー魔王と呼ばれた男』(2008年)では、そうしたアフォリズムを引用しながらアンドレオッティの人物像を淡々と語っている。ここで描かれているアンドレオッティは、権力を持った「魔王」と言うよりは、むしろ控えめで、敬虔なキリスト教徒ながら徹底したリアリズムを貫く政治家である。教会に行ってデ・ガスペリは神と話すが、アンドレオッティは司祭と話す、と言われたことに対して、「司祭は投票するが、神は投票しない」と返すアンドレオッティは、モノローグで述べている。「神の御心を理解しなければならないのと同様に、善のためには悪が必要だと理解しなければならない」。また、アンドレオッティの秘書は、「アンドレオッティはこの世には見る必要のないものがあるということを理解していた」と言う。「真実は正しいことだと皆が信じている。しかし実際には、真実とは世界の終わりだ。正しいという名目で世界の終わりを認めることなどできないはずだ」これはアンドレオッティ自身のモノローグである。

実際にアンドレオッティがマフィアと関係を持ち、暗殺を指示していたかどうかはわからないし、敬虔深く控えめな政治家であったアンドレオッティが、モーロが言うように「悪事を働くために生まれて来た政治家」であったのか、それともイタリアを救うために敢えて闇の部分に目をつぶっていたのか、ということについては評価が分かれている。いずれにせよ、アンドレオッティの死によって第二次大戦後のイタリア史におけるかなりの部分が、文字通り闇に葬りさられたのは確かであろう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年10月22日 (月)

イタリアの第二次世界大戦参戦について

1939年5月22日の、いわゆる鋼鉄同盟の締結により、イタリアは徐々にドイツの勢力圏に取り込まれていくように運命づけられた。ヒトラーがいかにムッソリーニを崇拝し、ムッソリーニがいかにヒトラーを毛嫌いし無視したがっていようと、二国間の軍事力の差は明らかであった。とはいえ1939年の段階では、イタリアは英仏を当てにできたとともに、英仏の軍事力は実際にはドイツを遥かに上回っていた。例えば、ドイツが同年8月に独ソ不可侵条約を結び、9月にポーランドに侵攻した際に、英仏がイタリアに譲歩して(絵北アフリカの領土割譲、エチオピア承認、チュニジアでのイタリア勢力の承認、ジブラルタル、マルタ、スエズに関する取り決め)即座にドイツに侵攻していればドイツ軍は太刀打ちできなかったろうと、ドイツの将軍たちも認めている。

ドイツは1939年9月にポーランドを占領した後、しばらくの間動かなかった。英仏両国はドイツに宣戦布告したものの実際には戦闘は行われず、奇妙な状態が半年以上も続くことになる。そして、1940年5月10日、ドイツ軍は突如、中立国であるオランダに侵攻する。この段階でヒトラーはイタリアの参戦を望んでいたが、ムッソリーニは中立を保った。52師団しかないドイツ軍が120個師団を擁する連合国に攻め込むことは自殺行為だとヒトラー配下の将軍たちも訴えていたようであるが、ドイツの機甲師団はマジノ戦を迂回し、アルデンヌの森を越えてフランスに侵入したため、裏をかかれた連合軍は瞬く間に壊滅する。予想外にうまくいったドイツの作戦を見て、イタリアは土壇場で対仏参戦を決めるという、最悪の行動をとることになる。ムッソリー二の参戦の動機は強欲だけでなく恐怖も影響していたと、ニコラス・ファレル『ムッソリーニ』(Mussolini, Nicholas Farrell, Weidennfeld & Nicolson, London, 2003, 柴野均訳、白水社、2011年)では述べられている。ムッソリーニはチャーノに向かって、中立でとどまることができると信じているイタリア人はいるのだろうか?どうやって中立を保つか教えてもらいたい、イタリアが後退できないのは明らかであり、鋼鉄と呼ばれる条約に調印したことが、ドイツに侵略される際には最後の頼みの綱になるだろう、と言っていたそうだ(p152)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月12日 (日)

イタリア統一 1848-61年

1848-49年にイタリア中で勃発した革命が失敗に終わった後、正統的な君主が復帰して「第二次王政復古期」が始まる。この時期のイタリア半島ではオーストリア帝国の覇権が確立し、国家内での改革の試みが阻止されて経済発展が抑えられた。そして君主と(中産階級の)世論との間の断絶は深まり、特に両シチリア王国及び教皇領(教皇国家)で顕著であったが、全イタリアで抑圧専横的政策が取られるようになった。

その中でピエモンテ王国の状況だけは違った。憲法制度が保たれていたことに加え、オーストリアとの平和条約(1849年8月のミラノ平和条約。オーストリアへの賠償金支払いを規定)承認に関する国家内の危機を乗り越えたダゼーリオ政権が国家の近代化に着手したのだ。特に教会との関係においては、1850年2月にはシッカルディ法が承認されカトリック教会の特権が廃止された。また同じく1850年にカヴールが農相大臣として初の政権入りを果たした。その2年後に首相となるカヴールは、自由競争の長所への信頼と新しい実践的自由主義の考えに刺激をうけ、広い文化的視野と経済問題についての深い知識を持った政治家であった。政府の軸を左側に移した(ラッタッツィと「同盟」を結んだ)カヴールは、何よりもまず自由貿易の導入による経済の近代化に着手し、国家による産業保護、信用制度の再編成、公共事業などの政策を行う。憲法に基づく自由の維持と経済発展、イタリアの他の国家からの亡命者の受け入れなどによって、カヴールが率いるピエモンテ王国はイタリア半島中の自由主義者の拠り所となった。

1848-49年の敗北の後も、蜂起による独立と統一への到達を目指すマッツィーニの不屈の活動は続いた。しかし彼の戦略に起因する失敗が相次ぎ、民主派の中でも次第にマッツィーニに対する批判が高まってきた。中でもピスカーネは「社会主義的」な考えによる国家解放を主張し、彼の一派はイタリア南部の圧迫された大衆に訴える。だがピスカーネが指揮したサプリ遠征(1857年)は、南部の大衆の反感によって悲劇的な結果に終わった。一方この失敗により、サヴォイア王家(ピエモンテ王国)との同盟が国家統一を成功させる唯一の道だと考えるグループが、民主派の中で力を強めることになる。(1857年にはマニンの提案により「国家連合」が創設された)

クリミア戦争及びパリ国際会議(1855-56年)へのピエモンテ王国の参加によって外交的成功を収めたカヴールは、イタリア半島からオーストリアを駆逐するためにはナポレオン3世の支持が欠かせないと確信していた。オルシーニによるナポレオン3世暗殺未遂事件の結果、(イタリアの愛国主義を重く見たナポレオン3世の意向によって)対オーストリア戦争を視野に入れたフランス・ピエモンテ間の軍事同盟が1858年にプロンビエールで締結された。この同盟のおかげで翌年4月の対オーストリア戦争はフランス・ピエモンテ同盟に有利に運んだが、ナポレオン3世が突然単独でオーストリアとビッラフランカの休戦条約を結んだため、ピエモンテ王国はロンバルディア地方のみしか獲得できずに終戦を迎える。エミリア、ロマーニャ、トスカーナ地方獲得のためには、イタリア北中部で反オーストリア暴動を起こすなど、新たな状況を作り出さねばならなくなった。

一方、休戦条約に不満を感じた民主派の人々は、(ピエモンテ王国から半ば独立して)イタリア南部への派兵によって闘争を続けようと考え始める。1860年5月にはガリバルディが千人の志願兵を指揮してシチリアに上陸し、ブルボン王朝軍を破って臨時政府を樹立した。初めはシチリア中で「解放者」を歓迎したが、何よりも土地所有関係の変化を望む農民の熱望により、そうした融和の時代はすぐに終わりを告げた。そして農民の暴動を恐れた土地所有者は、シチリアがピエモンテ王国に編入されるのを望むようになる。

ガリバルディはその後、カラーブリア地方に上陸しブルボン朝の首都ナポリを陥落させる。この状況でピエモンテ政府は、ガリバルディの遠征が国際問題に発展するのを避けるため、またサヴォイア王家がイタリア半島の状況を確実にコントロールできるようにするために、動かざるを得なくなる。軍を介入させ、ガリバルディ軍と南部国家をピエモンテに編入するすることで、南部の解放はカヴールの政策に従うこととなる。そして1861年3月17日に、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア王を宣言する。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月 5日 (日)

イタリアのリソルジメント(復興統一運動) 1820-47年

コムーネの時代から知識人の思想の中には、イタリア国家というものが存在していたわけではないが、イタリア国民という概念はあった。この概念が再び浮かび上がってくるのは、ナポレオンによる占領時代である。イタリアのジャコバン主義者(過激政治家)の間に、統一と独立を目指す政治的傾向が広まったのだ。この傾向は反動の時代(1815年ウィーン会議から1830年フランス7月革命の頃まで)には影を潜め、1820-21年のカルボナリ反乱の際にはほとんど見られなかったが、1831年の騒乱の時に再び姿を現すようになった。

1831年に、モデナ公国、パルマ公国、及び教皇国家レガツィオーネで相次いで起こった騒乱は、フランスの7月革命の影響を受けたものであったが、それだけではなく、モデナ公フランチェスコIV世を巻き込もうとした陰謀に端を発したものでもあった。モデナ公自身も、始めは陰謀に肩入れしていたのだが、結局は反動的な性向を明らかにして、陰謀のリーダーたちを捕えてしまう。それでも教皇国家レガツィオーネで騒乱が起こり、それが両公国へと広まった。1831年の騒乱の特徴は、自由主義派貴族や動員された大衆(少数ではあったが)の支持を得た、中産階級(ブルジョワ)が主役になったことであろう。しかし、この騒乱は一つにまとまらずに都市毎に分断していたうえ、穏健派と民主派が対立していたため、オーストリアの介入を招いて簡単に鎮圧された。

1831年の騒乱を鎮圧されて壊滅的な打撃を受けたカルボナリ党は、ジュゼッペ・マッツィーニが主張する方向へと転換を図る。マッツィーニの思想では、民主主義への渇望は半ば神秘的宗教的な様相を帯び、イタリアへの帰属という使命感を持つひとつの概念となっていた。社会的問題を無視したわけではないが、マッツィーニの思想の中心には、独立、統一、共和制という国民的目標と、それを達成する唯一の方法は民衆蜂起であるという信念があった。1831年にイタリア青年党を創立したマッツィーニは、民衆蜂起の計画に邁進し、1834年にはサヴォイア侵攻を企てることになる。しかしこの侵攻は失敗、さらに同様な計画の相次ぐ失敗もあって、マッツィーニの国民問題についての考えに批判が高まる。それとともに、新しい政治的傾向も広まることになる。

1830-40年代のイタリアは、ヨーロッパの他の国とは異なり、実質的に王政復古がそのまま続いた10年間であった。教皇国家や両シチリア王国は改革への反動で特徴付けられる一方、トスカーナ公国は改革に対していくらか寛大であり、ピエモンテ王国では、カルロ・アルベルト国王が教権的・正統王制的な傾向を持っていたにもかかわらず、いくつかの重要な改革が実現した。また、この時期のイタリアの経済的発展はとても緩やかで、いくらかの進歩が見られたとはいえ、ヨーロッパの先進国との間に積み重ねられてきた格差は縮まらなかった。

1840年代には、国民(民族)問題を穏健的に解決しようという政治的傾向(穏健派)が出現した。ジョベルティに代表される穏健派は、カトリック教会の国家的役割の再発見(ネオグエルフィズモ)に立脚していた。穏健派は、マッツィーニ派とは異なり、蜂起に訴えずに段階的な問題解決を目指していたために支持を広げるのに成功した。穏健派に見られる斬新主義と連邦主義は、カッターネオに代表される、ロンバルディアの民主・共和派にも見られる考えであった。

1846年の教皇選出選挙でピウス9世が選出されたことで、イタリア中が狂喜の波につつまれた。その熱狂は、ピウス9世が教皇就任直後に、限定的とはいえいくつかの改革(政治犯の釈放など)を行ったことで高まることになる。新教皇ピウス9世によって、穏健派ネオグエルフィズモが描く政治(オーストリア帝国がフェッラーラを占領したことで、世論の間でもネオグエルフォズモへの期待が高まっていた)が実現されると期待されていた。そして1847年には、両シチリア王国は別として、世論と民衆のデモに突き上げられた教皇国家以外の国家も、限定的とはいえいくらかの改革を行わざるを得なくなる。

サッバトゥッチ(G. Sabbatucci)、ヴィドット(V. Vidotto)共著『イタリア現代史 19世紀』、ラテルツァ社、2010年

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月10日 (月)

1935年までのファシスト・イタリアの対外政策の概要

石田憲『地中海新ローマ帝国への道―ファシスト・イタリアの対外政策1935-39』(東京大学出版会、1994年)p2-5より。

1861年のイタリア王国誕生以来、イタリアの対外政策にとって最も重要だったのは地中海であった。19世紀末の帝国主義国家間の争いにおいて、地中海では瀕死のオスマン帝国をめぐる領土争奪戦が展開された。しかし後進のイタリアの膨張政策は、常に地中海の要衝地を押さえていたイギリスを始めとする先発帝国主義国(フランス、オーストリア、ロシアなど)との交渉に左右され、イタリアの権益要求は、チュニス、トリポリはフランスによって(1878年ベルリン会議においてコンティ伯が「mani netti来よい手」によって、要するに何も要求しないことによって、フランスの北アフリカ進出が列強によって認められることになる)、アルバニアはオーストリア・ハンガリー帝国によって阻止されていた。

しかしロシア帝国の南下を牽制するために締結された、独墺伊三国同盟および地中海条約によって、イタリアは地中海における大国の一つとして認められるようになる。20世紀になるとアドリア海、エーゲ海にも進出し、1911年には伊土戦争(リビア戦争)によって、念願の北アフリカ沿岸の植民地を獲得する。

第一次世界大戦は、それまで当方に君臨していた東方の大国、オーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の解体をもたらし、長年弱い立場にあったイタリアは新たな機会を獲得したかに見えた。ところが実際は、英仏両国が蚕食する旧オスマン帝国領の「分配」や東南欧地域再編の「恩恵」にも与れず、十分な「報酬」も受けられなかった。このため戦間期におけるイタリアは、一方で戦勝国としての「正当な分け前」を要求しながら、他方では領土縮小に不満を持つ戦敗国の修正主義(ハンガリーやブルガリア)を支援することによって影響力拡充に努めた。地中海への新たな膨張と、中・東南欧域における勢力圏の形成を試みたのである。そしてこの時期におけるイタリア対外政策の基準点が、地中海において最大の軍事力と政治的影響力を持つ「海の女王」イギリスであった。ファシスト・イタリアは伊英関係における自らの位置を、「被保護国」から「パートナー」へと引き上げようとしたのである。

1920年代のイタリア対外政策は、基本的には自由主義イタリア外交の継続である。ムッソリーニは1925年1月にファシズム独裁を宣言したばかりで、国内では社会集団の解体再編(政党、労働組合、カトリック団体、商工業組合など)と非常独裁確立が急務であったので、外交政策にまでは手が回らず伝統的外務官僚の影響力が強くのこっていた。1923年のコルフ島事件に際しても、ムッソリーニは強攻策続行許さなかったし、マッテオッティ危機による国際的孤立も懸念されたので従来の外交の継承を対外的にも迫られていた。

1920年代がファシズム独裁の形成と国際協調の時代とすれば、1930年代は「非常独裁の恒常化」と対外冒険の時代と言えよう。一連の軍縮会議が頓挫した上、1930年10月にドイツの選挙でナチス党が勝利すると、ヒトラーを抑えられるのはムッソリーニだけだと見なされていたこともあり、イタリアがヨーロッパの均衡のための「決定的重し」になるとムッソリーニは計算していた。イタリアは一国では大国の中では最弱国の地位に甘んじるとしても、大国間の勢力均衡状態においては、その調整に決定的役割を果たすことができ、ファシスト・イタリアが主導権を発揮していっく基板は形作られたのである。

1932年にはグランディが外相を解任されムッソリーニ自らが外相に就任するとともに、伝統的外交官僚(スービッチ、アロイジ、グラリーリアら)の異動が行われ、併せてムッソリーニを脅しかえないファシスト・サブリーターたち(バルボやファリナッチら)も閑職に転任させられた。こうしてムッソリーニの個人独裁は対外政策においても貫徹可能となり、イタリアは自由主義期より繰り返し主張されてきた地中海への膨張を実行に移し始めたのだ。

またこの時期、国際連盟、ケロッグ・ブリアン不戦条約などの普遍的安全保障システムは、米国の孤立主義や大国間の思惑によって、徐々に機能しなくなりだた。こうした背景のもと、1933年7月15日に、ムッソリーニがイニシアティブを取ることによって米英独伊の四国条約が調印されることになる。この協定は、ドイツにとってはヴェルサイユ条約の限定的修正の承認であり、フランスにとっては中・東欧同盟体制(小協商:チェコ、ユーゴ、ルーマニアとの同盟体制)からの部分的撤退を意味し、イギリスにとっては、ドイツの台頭を他の三国によって抑制する第一歩と位置づけた。同時にイギリス政府は、当時最大の敵と見なしていた、東アジアで膨張を続ける日本に対抗するためにも、アジアと本国を結ぶ最短路である地中海の「平和」に固執し、伊英友好関係維持を死活問題と見なし始めていた。

こうして、イタリアは4国協定によって4大国の一角に食い込み、地中海・ヨーロッパにおける発言力を強化することができ、エチオピア戦争・スペイン内戦・第二次世界大戦によって破滅に至までのつかの間の「爛熟期」を迎えることになる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年9月29日 (木)

1947年のイタリア、デ・ガスペリと西側陣営への参加

1947年1月のイタリア共和国首相デ・ガスペリによる米国訪問は、第二次大戦後のイタリアの進むべき道を決定付ける出来事であった。この訪問時に、トルーマン大統領及びアスチンと会談したデ・ガスペリは、イタリアが西側陣営につくことを明言したのだ。日本がサンフランシスコ講和条約で主権を回復する4年前のことである。

面白いことに、デ・ガスペリ訪米時の外相は社会党(イタリア統一プロレタリア社会党:PSIUP)のネン二であったが、米訪問には同行していない。なぜならその時期、ローマ大学「サピエンツァ」で社会党全国大会が行われていたからである。この全国大会でサラガドら社会党右派はプロレタリア社会党(PSIP)を設立し、社会党から分離する。PSIPに参加した人数自体は少なかったものの、結果的には社会党の立憲議会議員の半数がサラガドに従うことになり、勢力を大きく削がれた社会党主流派は党員の結束を固めるためか党名をPSIUPからイタリア社会党(PSI)という戦前の名称に戻すことになる。しかし、そうした試みにもかかわらず、戦前・戦中に活躍したシローネらは第三の分離派を作り、結局はサラガドらに合流することになる。ネンニはイタリアが西側へつか東側へつくかという問題よりも、社会党内部の問題を優先させたと言えなくもないのだ。

一方、前年(1946年)11月の地方選挙では各地で共産党(PCI)が躍進し、キリスト教民主党(PD)や社会党(PSIUP)が議席を失うとともに、自由党や共和党など右派勢力が軒並み票を失っていた。それにもかかわらずデ・ガスペリは1947年2月の段階までは三党内閣を保たなければならなかったのである。その月にパリ条約が調印されることになるのだが、敗戦国なみの扱いを受けざるを得ないイタリアは、どのような条件でもイタリア市民が満足できる条約を締結できる見込みはなく、PSIおよびPCIが参加した内閣が条約を締結して責任を共有しなければならなかったからである。実際、西側陣営への参加を表明してアメリカから帰国するとすぐに、デ・ガスペリは内閣を作り直すのだが(第三次デ・ガスペリ内閣)、DC、PSI、PCI三党参加の内閣にせざるを得なかったのだ。もっとも外相には、戦前コルフ島事件などを解決した自由党系のスフォルツォを任命し、社会党、共産党には重要なポストを与えなかった。

この年の4月にはアメリカ国務長官(外相)マーシャルが欧州復興計画、いわゆる「マーシャルプラン」を発表する。デ・ガスペリは内閣から共産党・社会党を排除して第四次デ・ガスペリ内閣を形成し、マーシャルプラン受け入れを表明する。これでイタリアの西側陣営への参加は確実となり、ソ連とは距離を置いて2年後にはNATOに加盟することになる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年9月18日 (日)

1920年代後半のファシズムの文化政策

ファシズム政権は文化の面にも介入しようとしていた。1925年にジェンティーレを中心に『イタリア百科事典』の企画が発表され、翌1926年には「イタリア学士院」が創設される。

ファシズム初期の原動力は反体制と革命であったため、マリネッティを始めとした未来派が多数ファシズムに流れ込んできた。後の国民文化相ボッタイも1920頃は「ローマ未来派」誌の編集長をつとめていた程である。しかしマリネッティは1929年にはイタリア学士院会員となり、もはや保守体制側となったファシズム政権に取り込まれてしまう。

逆説的なことに、1920年代後半に親ファシズム路線を最も精力的に展開していた知識人マラパルテやマッカーリは、ムッソリーニにとっては最も扱いにくい文化人と見なされるようになる。なぜなら彼らはファシスト運動が持つ、反逆的で革命的な側面に熱狂していたからである。体制を破壊し英雄たちによる独裁を主張した左翼的な初期ファシズム神話は、財界、国王、教会と調停を計らねばならない1920代後半〜30年代前半にかけてのムッソリーニにとっては不必要なものだった。結局マラパルテは1929年に「スタンパ」紙の編集長に任じられ、ある意味、体制にとりこまれていくことになる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年9月14日 (水)

第一次世界大戦勃発時のイタリア

1914年6月28日に起きたサラエボ事件の報復として、オーストリアがセルビアに宣戦布告することが引き金となって第一次世界大戦が勃発したが、当初イタリアは中立を宣言した。「独墺伊の三国同盟は締結国が第三国に攻撃されたときのみ効力を発するのであって、締結国から一方的にしかけた戦争時には適用されない」というような理由で、独墺の参戦要求を断った。当時のイタリアは陸上でも海上でも、植民地でも、また産業でも市民組織でも文化面でも、列強諸国と対等にわたりあえる状態ではなかった。また、1882年から続くハプスブルグ帝国オーストリアとの同盟はトレンティーノ、ヴェネツィア・ジューリアをあきらめることを意味し、その代償のおかげで独墺以外の国友友好関係を結び、1911年リビアを獲得することができたのだが、一方ではそれらの地域は未回復地(イッレデント)の問題としてイタリア人のナショナリズムを煽る要素ともなっていた。そうした理由で、1914年に中欧諸帝国とともに戦争に巻き込まれる展望が起きたことにイタリア人のほとんどは熱狂せず、「ワルツのターン」と評されたイタリアの外交政策も否定できるものではなかったのであろう。

しかし短期戦と思われていた戦争が一年も続くと、当初期待されていた戦争特需もほとんどないまま逆に輸出先を失い原材料も入ってこなくなったイタリア国内の経済状況が悪化し、参戦論が主流となってくる。ここで重要な役割を果たすのは、イタリアの歴史上初めて主役となる中間諸階層であった。そして彼らに、これまでとまったく新しい演劇的ともいえる政治スタイルで訴えかけたのが、ナショナリストのロッコであり、社会党を離党したムッソリーニであり、国民的英雄に祭り上げられたダンヌンツィオであった。皮肉なことに、彼らは攻撃の対象とした社会主義政党が大衆へ訴えかけるスタイルを真似たのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年9月13日 (火)

1900年頃のイタリア社会党

イタリアで最も歴史のある政党は1882年に創設されたイタリア社会党である。しかし社会党が真に大衆政党となるのは(もしくは、汚職都市(タンジェントーポリ)の象徴とされたクラクシとともに創立から110年を過ぎて滅びるまで真の大衆政党には一度もならなかったと言うこともできるかもしれないが)第一次世界大戦後であり、1900年の段階では北西部の工業三角地帯およびポー平野の資本主義化が進んだ地域の農民、工場労働者、サービス業従事者、都市の中下層の中流階級が主な支持者であった。よって必然的にトウラーティやトレヴィスなど穏健派が主流となり、政局のために左翼を理解するそぶりを見せ続けたジョリッティと手を組もうとまでしていた。

一方、北部のプロレタリアートにとっては、マルクス主義的な社会主義は未来の天国を約束する一種の宗教のようなものであった。また貧しく不正に満ちた社会現実に憤慨する一方、リソルジメントを否定せずに、それを追求する中で、民衆を教育して生活条件を改善していこうと努力した。よって、彼らは国民感情と社会主義的活動が矛盾するとは思っていなかった。それ以外の地域の、取り残されて飢えに苦しむ庶民にとっては、資本主義や剰余価値、搾取といった言葉は何の意味も持たず、純粋に食料を欲しがっていた。この2つの世界の違いは、そのまま南北問題に当てはまるのだが、サルヴェーミニなどごく少数をのぞけば、それに気づいている指導層はいなかった。

改良派が党の舵取りをしていた1900年の総選挙で社会党は議席を増やしたが、党内での勢力がかわると、党としての意見がまとまらず、この後、社会党はどっちつかずの政策を進めていくようになる。そして1914年、第一次大戦に賛成か中立かという決断に関しても、なかなかはっきりとした態度は出せず、結局はムッソリーニが社会党を離脱して参戦論を主張することになり、彼に焚き付けられた大衆に引きずられて、参戦を容認してしまうのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月19日 (日)

ダンヌンツィオのフィウーメ占領と下位春吉

1919年9月にフィウーメ(今はクロアチアのリエカ)を占領したダンヌンツィオは、カルナーロ共和国(カルナーロ伊摂政国)設立を宣言した。ダンヌンツィオの性格や経歴を見るとまっとうな統治能力など期待できないのは明らかだと思うのだが、ともかく1年3カ月は共和国としての命運を保った。もっとも文化が政治を支配し、毎日パレードやフェスタで騒ぐだけの国が自立してやっていけるわけがなく、最後の方は海賊に出掛けて分捕った積荷(ときにはイタリア船も交じっていたようだ)や飛行機で近くの土地まで行って略奪してきた家畜や農産物で、なんとかしのいでいたようだ。

ところで、ダンヌンツィオ支配下のフィウーメには1人の日本人がいたことが知られている。統領ダンヌンツィオの知り合いでった。未来派やダンヌンツィオの研究家クラウディオ・ソラーリスの『革命の祭典』(Claudio Solaris, Alla festa della rivoluzione-Artisti e libertari con D'Annunzio a Fiume, Bologna, Mulino, 2002)には「寺崎武男」の銘が入った絵(寺崎武男はイタリアにいたこともあり、ビエンナーレに何度も参加している画家)を背景に軍服を着てサーベルを差し、マフラーを巻いて左手を腰にあてて立っている日本人の写真が載っている。キャプションには「アルディーティ(突撃隊)のユニフォームを着た日本人作家、下位春吉。1920年2月」とある。

下位春吉(1883-1954)はもともとダンテ研究家で、1915年にイタリアにわたりナポリ東洋大学の日本語教師となっている。文芸誌『ラ・ディアーナ La Diana』に参加、1920年には文芸誌『サクラ』を設立、と詩人としても活躍し、1925年に日本に帰国してからは、ファシズムやムッソリーニに関する情報を積極的に伝えている。

1915年にイタリアが第一次世界大戦に参加しオーストリアとの戦闘がはじまると、下位も前線に赴きダンヌンツィオと知り合ったらしい。これが縁でダンヌンツィオのフィウーメ占領に参加することになった。

カルナーロ共和国には革命サンディカリストのデアンブリスやヨガ協会を作ったケレル、作家となるコミッソや詩人カッリエ―リ、「ローマ未来派」を作ったマリオ・カルリなど多種多様な人物が参加し、マリネッティも一時期関わっていた。デアンブリスなどの尽力で「カルナーロ憲章」を作り、後のファシズム共同体主義(Cororativismo)のモデルと見なされることもあるダンヌンツィオのフィウーメ占領であるが、参加メンバーからもわかるように国としては機能していなかった。もっともダンヌンツィオのフィウーメ占領の目的は第一次大戦後の「骨抜きにされた勝利 Vittoria Mutilata」神話に基づいてイタリア自由主義政権に揺さぶりをかけることであり、そういう意味では成功したのかもしれない。また結果的にダンヌンツィオの思惑からは外れることになるが、ともかくフィウーメ占領の方法論は2年後のムッソリーニのローマ進軍へとつながっていった。

さて、カルナーロ共和国の参加者の一人に下位春吉がいた。ソラーリスによると、

フィウーメへの連帯を表明した…(中略)…ナポリ東洋大学日本語日本文学教授でもある下位春吉は、1919年の夏に計画されていた東京―ローマ長距離飛行に参加するはずであった。これは結局、アルトゥーロ・フェッラーリンによって実現されることになる 。1920年の2月1日、第一次大戦中の戦友ダンヌンツィオを訪ねてフィウーメに到着した下位は(戦争中、東京の新聞社の特派員として前線にいた下位は、カポレットの戦線でダンヌンツィオと知り合っていた)、ダンヌンツィオに熱烈に迎え入れられた。司令部の食堂での昼食でダンヌンツィオは、下位とアジアの復興を讃えるスピーチを行った 。おそらくフィウーメでは、下位はダンヌンツィオとムッソリーニの間のメッセンジャーの役割を果たしたのだろう。観光客としての彼の立場は、包囲され外部と遮断されていたフィウーメの中を自由に動くことができたのだ。(p.32)

ソラーリスによると、下位は第一次大戦の前線カポレットで新聞社の特派員として派遣されたというが、実際のところはよくわからない。もしかしたら日本の新聞を調べれば出てくるのかもしれない。下位が第一次大戦で突撃隊に志願していたという説もあるが、これもわからない。ただ、フィウーメで下位が突撃隊(Arditi)の制服を着ていたのは、単にフィウーメに溢れていた突撃隊の誰から借りただけであろう。

さらに下位について、ソラーリスはこう述べている。

下位は俳句をいくつかイタリア語に翻訳したが、それは若い頃のウンガレッティに何らかの影響を与えたと思われる。Claudia Salaris, Luciano Folgore e le avanguardie, Firenze, La Nuova Italia, 1997, p.45参照。ナポリの雑誌『La Diana』に執筆していた下位は、1917年にジェラルド・マローネと共同でPoesie giapponesiシリーズを編集、ナポリのリッチャルディ社から出版された。(p.213)

しかしソラーリスは、下位が実際フィウーメにどれくらい滞在し、何をしていたかについては記していない。他には、フィウーメに参加したベルギーの音楽家レオーネ・コホルツキ―の自伝Leone Kochnitzky, La quinta stagione o i centauri di Fiume, nota e traduzione dal manoscritto francese di Alberto Luchini, Bologna, Zanichelli, 1922 からの引用で「ときどきは下位春吉が日本の詩句を吟じた(p.199)」とあるだけである。コミッソやカルリなどについての記述は豊富にあるので、もしかするとほんの数回ダンヌンツィオを訪ねてきただけなのかもしれない。下位についての参照先としては以下が挙げられている:

‐Gabriele D’Annunzio, Saluto all’ospite d’Oriente, ora in Id., La penultima ventura. Scritti e discorsi fiumani, a cura di Renzo De Felice, Milano, Mondadori, 1974, pp. 200-202.
‐Ferdinando Gerra, L’impresa di Fiume. I: Fiume d’Italia, Milano, Longanesi, 1974, pp. 247-248
‐Antonio Spinosa, D’Annunzio. Il poeta armato, Milano, Mondadori, 1987, pp. 172-173.

これらの文献や、日本の新聞などを調べてみれば、何かが出てくるかもしれない。

ともかく下位とダンヌンツィオに交流があったことは間違いなく、おそらくはムッソリーニとも交流があったと思われる。もっとも、ムッソリーニの発言や演説、記事を集めた35巻からなるOpera omnia di Benito Mussolini に、下位の名前は1カ所しかでてこないが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)