イタリア事情

2014年1月22日 (水)

レンツィ民主党(PD)党首

昨年12月に行われた与党イタリア民主党(PD)の党首選で圧勝したマッテーオ・レンツィ(39才、党首選時点では38才)は、年明け早々に「ジョブズ・アクト」と呼ばれる失業対策提案と、3パターンの選挙法改革提案とを相次いで発表した。

「ジョブズ・アクト」については、日経新聞に記事が出ている。なぜわざわざ英語のネーミングにしたのかはよくわからず批判されたりもしているが、内容は特に奇をてらったものではなく、日本よりも厳しい労働契約の緩和による労働市場開放と失業給付制度の刷新を求めている。

選挙法については、年明け早々に、各政党宛のレターを公開し、現行制度の改革も含む3パターンの改革案を提示して、他政党とのオープンな議論を呼びかけていた。その結果、年末に上下両院で議員資格を剥奪されて議員を辞職したベルルスコーニ元首相がレンツィとの会談に応じ、選挙改革を行うことに同意した。

ベルルスコーニ元首相は、議員辞職とともに与党「自由国民」から離脱し、元々「自由国民」の母体であった「フォルツァ・イタリア」を再建して政治への復帰を画策していた。そのため、レンツィと同じ民主のレッタ首相や、ベルルスコーニと袂を分かって新政党「新中道右派」を結成して政権にとどまったアルファノ副首相などから、単に政局に利用されただけだと批判が出ているようだ。

挑発的な言動で、ときには自党の大臣や幹部をも痛烈に批判するレンツィ民主党党首の人気は今のところ高いが、その反面、民主党内部も含む様々なところからの批判が絶えない。いずれにしても、しばらくはレンツィがイタリア政局の中心となりそうだ。

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2013年6月 4日 (火)

共和国記念日と大統領選挙

現在、イタリアの大統領(任期は7年)は、アメリカやフランスのように権限はないものの国家の元首であり、政治家としての最終キャリアとして位置づけられている。先日死去したアンドレオッティも大統領ポストを望んでいたし、2006年に元共産党幹部のナポリータノが大統領に選出された際には、当時野党であった中道右派勢力は何としても共産党員が大統領になるのを妨げようとしていた(もっとも2013年にナポリターノが再任を受け入れた際には、普段はどんなことでも共産党の陰謀と結びつけるベルルスコーニさえ積極的に支持することになるのだが)。

ところで昨日6月2日は、イタリアは共和国記念日の祝日であった。1946年、今から67年前のこの日に行われた国民投票によって、イタリアは王制を廃止し共和制を選択したのだ。その式典の際だかに、民主王のレッタ首相が大統領選挙制度の改正について言及し、人民党(ベルルスコーニの政党)から入閣しているアルファーノ副首相は積極的に同意を示した。

大統領選挙制度改革については、与党内でも野党内でも意見が分かれている。民主党では、閣僚の一人でもある(家庭大臣)ロジー・ビンディや最左翼のニキ・ヴェンドラが「必要ない」と答えている。一方、人民党と連合を組む北部同盟党首のロベルト・マローニも「無駄な改革だ」と述べている。もっともマローニら北部同盟にとっては、大統領の存在自体が必要ないのであろう。さらに例のごとく、今や第三党の党首となったベッペ・グリッロが「そんなことをやっている暇はない」と政権政党をひとまとめに批判しだす。イタリア政局はますますカオス状態になっていくのだろうなあ。

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2013年1月 6日 (日)

モンティ政権の改革

モンティ政権は実際に何を成し遂げたのであろうか。

モンティは、2011年11月9日にナポリターノ大統領から終身上院議員に指名され、5日後の11月14日に組閣、12月4日には総額300億ユーロ(約3兆円規模)におよぶ緊縮財政案を発表した。この財政案は12月6日に法律命令第201号「成長、公正及び財政再建のための緊急措置」として発令され、12月22日には国会の承認を受けた。

その主な内容は以下のとおりである:
・年金受給年齢の引き上げ
・年金のインフレ調整の凍結
・付加価値税率の引き上げ
・不動産税(固定資産税)の導入
・金融商品・贅沢品への課税
・州議会議員の削減
・公務員数の削減
・脱税対策(1,000ユーロを超すキャッシュ取り引きの禁止など)
・規制緩和と独占権の廃止

労働組合は当初この財政案に反対していたが、最終的には「経済危機の状況においてはやむを得ない」とみなして容認する。薄氷の思い出通した財政案について、モンティ首相は外国報道機関との会見で「この緊縮財政対策が承認されていなければ、イタリアはギリシャのように財政破綻に陥っていたかもしれない」と心情を吐露している。

さらにモンティ政権は労働市場の改革を目指し、2012年6月27日に、失業手当を拡充する代わりに企業が業績悪化時に従業員を解雇できるようにする法案を成立させた。この改革案には若年層の就労支援策(インターンシップを名目とした正規の契約を結ばない短期就労の制限など)や女性差別的な労働慣行(女性採用時にあらかじめ辞表を提出させ、産休が長期化した際などに、この辞表を根拠に事実上解雇するなど)の是正も盛り込まれていたが、労働組合は反発。すでに施行されている緊縮財政策の不人気も手伝って(政権発足当初は70%を超えていた支持率が、一時は30%を割っていた)、各地でデモも頻発する。この結果、当初は償金の支払いで解決することができるとされていた「経済的な理由(業績悪化など)による正社員の解雇」に、裁判所の判断による復職規定が加えられた。

モンティ政権の狙いは、イタリアの労働法で保護されていた雇用の調整を流動化させることで、外国企業を呼び込むとともに国内産業を活性化し、税収増につなげることであった。翌28日開かれたEU首脳会議でモンティはこの労働市場改革法案を発表し、EU各国のイタリア経済に対する不安を和らげることに成功する。その結果、国際社会におけるイタリアの信頼はある程度回復し、イタリア国債のスプレッド(ドイツ国債との利回りの差)も落ち着く。

しかし県の数を縮小整理する案は否決される。また、実質的な与党である自由国民(PDL)はモンティ政権の緊縮財政路線に反発を強めるようになり、10 月27日にはPDLリーダー、ベルルスコーニがモンティの財政政策を批判。PDL幹事長アルファーノはモンティ支持を表明するが、12月7日にはモンティ批判に転じて、「モンティの役割は終わった」と議会で発言する。この発言によって、これ以上の政権運営は困難と見なしたモンティは辞意を表明することになる。

もっともモンティが辞意を表明したのは、10月16日の法案提出より審議されていた財政健全化法案が、ようやく成立する見通しが立ったからでもある。とはいえ66日間におよぶ審議の結果、当初の提出案から大幅な修正がなされることとなる。

概要は以下の通りである:
・政府案で提出された個人所得税減税は削除され、代わりに子の扶養控除が増額。
・歳出額は上院での審議で倍増(150億ユーロから324億ユーロへ)。歳出項目も10〜20ほど追加
・出版・テレビ間の持株の禁止は2013年6月30日まで延期。
・政府案より、所得保証金庫と生産賃金補助金が増額。
・政府案より、失業者手当が増額。
・年金の有効性チェック規定が改定。
・全国保険基金を6億ユーロ削減。
・市への交付金を削減する代わりに固定資産税などの権限を市へ移譲。もっとも、モンティ政府が行おうとした県制度を市制度に合併する改革は凍結状態のまま。

週刊誌『レスプレッソ』はモンティ改革について、以下のように評している。

モンティ改革によってイタリア国民は、固定資産税(IMU)を払い(2,400億ユーロ、GDPの1.5%)、財政収支の印紙税を払い、付加価値税を多く払うようになった。また、年金の受給開始年齢は上がった上、支給額は減少。消費は15年前のレベルに戻り、失業者が急増。イタリア人の負担はかなりのものだったが、この犠牲にいつまで耐えればいいのかわからない。…議員数削減は棚上げで、県制度の廃止は骨抜きにされてほとんど意味がなくなった。

結局、モンティ政権下の1年間で、イタリア国債のスプレッド(ドイツ国債との利回りの差)と赤字削減はある程度回復したが、労働市場は改善せず成長も未だ見られないようだ。議会経費削減と県制度改革は議会の反対で中途半端に終わり、財政再建法案についても議会によって大幅に修正された。このままでは改革の評価も中途半端で改革の流れも変わってしまうと危惧して、モンティは続投に意欲を示すようになったのかもしれない。

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2013年1月 4日 (金)

イタリアの株価回復と次期選挙におけるモンティ首相

ロイターも伝えているように、米上下院で「財政の崖」回避法案が成立したことを受けて、イタリアの主要企業40社で構成されるFTSE MIB指数が3.8%上昇し(ユーロ圏で最大の上昇幅)、イタリア10年債とドイツ10年債との利回りの差であるスプレッドは283ベーシスポイントまで下がった。モンティ首相が就任時(2011年11月9日)に掲げた「スプレット(当時574ベーシスポイント)の半減」という目標が、ようやく達成されることになった。これで自信を持ったのか、モンティはテレビ番組で2月に行われる予定の選挙で対立候補となりうる自由国民代表ベルルスコーニと民主党代表ベルサーニからの批判に対して反論した。

モンティ首相は、次期選挙で中道勢力のまとめ役になる。しかしモンティ自身は、2011年11月に終身上院議員に任命されているため選挙を戦う必要がない。これはベルルスコーニに代わって政権を担当するためになされた措置であり、イタリアでは前例がないことではない。1993年4月のチャンピ首相、1996年5月のディーニ首相と、過去に2回のテクノクラート政権が誕生している。だが次回の選挙で誕生するのはテクノクラート政権ではなく、総選挙で勝利した政党(連合)の代表が首相となるため、選挙の洗礼を受けずに首相候補になる可能性のあるモンティに対して、モラル面からの批判もあった。

そもそも、モンティ自身もそれは感じていたため、自由国民(政権与党の一つ。モンティに首相を譲ったベルルスコーニが代表を努める)幹事長アルファーニの一言で2012年12月に辞任を決意した直後は、次期政権への不参加を表明していた。それが一転して出馬を表明することになったのは、左右どちらの陣営が勝っても、この1年間に行って来た政策がすべて否定される恐れがでてきたからだ。

中道右派では、モンティ政権が行った増税・緊縮財政政策を激しく批判する自由国民代表のベルルスコーニが復帰の意を示し(2011年11月の首相辞任後、引退を表明していた)、EUそのものを否定する北部同盟と選挙協力で合意した。

他方、中道左派では2012年12月に代表選が行われ民主党のベルサーニが決選投票を制して中道左派の代表になったが、決選投票を制するために労働組合(モンティ改革の「抵抗勢力」となっている)や、ヴェンドラ(左翼エロロジー自由党首。緊縮財政・ヨーッロパ主義を強烈に批判している)の力を借りなければならず、穏健派のベルサーニが政権をとっても、この両勢力の意向を無視する事ができなくなってきた。

モンティはEUの競争政策担当委員も努めた(競争政策担当委員としのモンティに関してはトム・リード『「ヨーロッパ合衆国」の正体』に詳しい)徹底したヨーロッパ自由市場主義であり、どちらの陣営が政権をとっても、自らが成し遂げた改革が振り出しに戻ると危惧したのだろう。

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2011年6月28日 (火)

国民投票とマルコ・パンネッラと原発

日本では名目だけの存在の国民投票だが、イタリアでは国民投票で重要なことが決められる。

第二次世界大戦後まもない1946年6月2日、3日には、王政か共和制かを選ぶ国民投票が行われ、共和制が過半数を占めたイタリアは共和国として生まれ変わる。というよりも、イタリア共和国は国民投票から誕生したと言えるのかもしれない。

その後は長いこと実施されなかったが、70年代に国民投票を政治手段の一つとしてうまく用いたのが、急進党のマルコ・パンネッラだった。パンネッラはポルノ女優を議員にしたり、空腹ハンストしたりと、何かと人の目を引いてきたが、1974年には離婚禁止法に反対する国民投票をしかけ、見事に勝利する。

マルコ・パンネッラで思い出すのは、大統領指名選(2005年だったか?)で議員をはく奪されたアントニオ・ネグリに票を入れ続けたことと、テレビの討論番組で司会者の合図も時間も無視して自分の主張を喋りまっていたことだ。イタリア民主主義を愚直に体現しているような感じの政治家で、同じく民主主義の原点ともいえる国民投票とは相性がいいのも当然だったのかもしれない。

パンネッラ以後、イタリアでは憲法修正や欧州議会への参加など、多くの案件が国民投票に諮られるようになる。そして、チェルノブイリ原発事故1年後の1987年には、原発に関する国民投票が行われ、自治体が受け入れを拒否すれば、国は原発を建設できないことが決定される。

ここ近年は国民投票をしても有効投票率の50%に達しない事態が続き下火になっていたが、皮肉なことに福島原発事故のおかげで2011年6月の国民投票では有効投票率に達し、イタリア国内には原発を建設できなくなった。

実は今回の国民投票の争点は
1.水道会社の民営化
2.水道料金の営利化
3.原発再開
4.閣僚の訴訟免除
の4つを規定する法律を廃止するかどうかの4点であった。なんだかトートロジーみたいだが、ベルルスコーニ政府にとっては3よりも4の方が気にかかっていたと思われる。

3、4、を提案したのは、ディ・ピエトロが党首を務める政党「価値あるイタリア」であった。mani puliteを指揮して政界汚職を摘発したディ・ピエトロはベルルスコーニにしてみれば天敵のようなものなのだろう。あらゆる姑息な手をつくして国民投票不成立を目指したベルルスコーニであったが、上述したように日本の震災及び原発事故のおかげで世間の注目を浴びて国民投票は成立した。もっともベルルスコーニのメディア戦略はすでに過去のもので、これほどネットが普及した現代には、さすがのベルルスコーニも対応できなくなっていると言えるのかもしれない。

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2011年6月14日 (火)

木村毅『ラグーザお玉 自叙伝』

木村毅『ラグーザお玉 自叙伝』を読んだ。

1876年、といえば日本では西南戦争の1年前、イタリアでは歴史的左派のデプレティスが首相となり、後のイタリア政治を特徴づける多数派形成政治(トラスフォルミズモ)が始まった年、彫刻家ヴィンチェンツィオ・ラグーザが明治政府に招かれて日本に来た。ラグーザはパレルモ出身で、ガリバルディのイタリア統一軍(1860-61年)に加わったこともあるためか、ガリバルディを尊敬していたという。

ちなみに三宅雪嶺がガリバルディと西郷南州の比較論を書いているように、ガリバルディはよく西郷隆盛と比べられ、おそらくラグーザも西郷を尊敬していたという。確証はないそうだが。ロマーノ・ヴルビッタは、ムッソリーニが西郷を尊敬していたという論を展開し、おそらく下位春吉がムッソリーニに西郷のことを語ったのだろうと言っていた。確かにそうかもしれないがわからない。ただそれが本当なら、イタリアでもよく西郷とガリバルディを比較されていたのかもしれず、興味深い。

それはともかく、ラグーザは8年後(1882年)、弟子でもあった清原お玉を連れてパレルモに帰る。ラグーザは、同年ガリバルディが死去したが、ガリバルディの銅像を作る能力のある作家がイタリアにいないとの報道を見て、いてもたってもいられなくなって日本を離れたそうだ。実際は他にもいろいろ理由があったのだろうが、ともかく、ラグーザは22歳のお玉と、お玉の姉夫婦を連れてシチリアに帰った。

その後、絵の才能があったお玉はイタリアで画家として認められ、ラグーザと結婚する。姉夫婦は1889年には日本に帰るが、彼らを調べてみるのも日伊交流史を考える上では面白い。

さて、エレオノーラ・ラグーザと名前を変えた(?)お玉は、ヴィンチェンツィオの死後シチリアで一生暮らそうと決心するが、1931年、お玉が71歳のときに木村毅の『ラグーザお玉』のおかげで日本でも名前が知られるようになったおがげでその2年後に日本に帰ることができ、1939年4月6日に死去するまで、日本で余生を暮らすこととなる。晩年は一度忘れた日本語を再び思い出していくのだが、ラジオで「ムッソリーニ、チアノなどという言葉を聞くと、ドキリと」(p.180)したという。ちょうどこのころイタリアはドイツと枢軸を形成しはじめるのだが、防共協定や三国同盟などの関係で、イタリアの事情は日本でもよく伝えていたのだろう。

お玉は、まさにイタリアで暮らしたて、イタリアで認められた日本人の先駆けでもある。お玉がいた時代のイタリアでは、日本のことはそれほど知られていなかったのだろう。日清戦争で日本政府がイタリアから買った軍艦、日清、春日が活躍し、日露戦争で日本が勝つと、お玉の周りの人も大喜びしたという。しかし、当時のイタリア人の日本に対するイメージはどういうものだったのだろうか?パレルモとローマでも状況が違うとは思うが、お玉の周辺を調べてみるのもいいかもしれない。

お玉がパレルモに滞在中は、ほんの数人しか日本人には会っていないという。中には下位春吉や小野七郎、畑正吉のように、なんとか跡をたどれる人もいるが、「パレルモにさすらうて来た」(p.150)という元ローマ公使館料理番のような人たちがその後どうしたのかにも興味がある。なんとか跡をたどれないものだろうか。

ところでお玉は日本語をほとんど忘れてイタリア語で話していたというが、パレルモの言葉を使っていたのだろうか?もしそうなら、下位春吉や小野七郎は理解できたのだろうか?現にお玉が夫の死後、一度日本に帰ろうと思い立ち日本大使館に行ったところ門前払いをくらったというエピソードがある。これを木村が後に外務省へ問い合わせたところ、お玉の言葉が田舎の言葉で、よく意思が通じなかったのだろうと弁解したという。しかし、これはあながち弁解だけではないのでは、と思うのだ。

もっとも夫ヴィンチェンツィオは教養もあり方言でないイタリア語を使っていたのだろうから、お玉もそれほど訛りはなかった、もしくは使い分けていたのかもしれない。ともかく52年間も異国で暮らせたのはお玉の性格によるところも大きいらしい。木村が言うには、

世間はここにもロマンスをさがしたがるが、殆ど何もない。お玉さんは徹底したリアリストなのだ。福沢諭吉先生を女にしたら、あるいはこうもあったろうかと思う程、感情は細かい。…そんな人だったから、日本語を忘れてしまうまで、半世紀の間も海外で辛抱できたのだ。(p.208)

この時代、いかに夫がいたとはいえ、日本人が誰もいない海外にくらすのはそう簡単なことではないのかもしれない。ラグーザお玉がそれに耐えれたのは、上に述べた彼女の性格と絵の才能のおかげかもしれない。またそれゆえ、名前が知られるようになったのだ。

逆にいえば、日本を飛び出し世界各国で骨をうずめた無名の人たちは、意外に多いのかもしれない。イタリアに限ってもお玉以外にも何人かいるのかもしれない。そういえばファシズム期のテレビについての本で、見慣れぬ日本人の俳優の名前を見た覚えがある。いろいろとたどって調べてみると、何か見つかるかもしれず面白そうだ。


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2011年6月 4日 (土)

イタリアは国民投票により原発から脱却できるか?

日本のメディアでは、イタリアは原発を捨てたと報道されているが、実際は完全に原発政策を撤廃したわけではない。来週(2011年6月12、13の両日)行われる国民投票で、イタリアがドイツと同じ道を歩むのか、それともベルルスコーニが主張する原発再開への道を選ぶのかが決まることとなる。

6月1日付『MicroMega』ウェブ版に「原発反対の国民投票:最終決定は法にかなっていた」と題する記事がある。これによると、ベルルスコーニは一時的に原発を停止してはいるが、一貫して原発政策そのものは続けようと画策していたという。法律を改正し国民投票そのものの無効を主張して破棄院(最高裁判所に相当)の審査に付していたのだが、政府の圧力にもかかわらず破棄院は、6月1日に、国民の権利を守るために国民投票は有効だと最終的に判断した。

これに対して、いつものごとくベルルスコーニは悪あがきをしているようだ。以下は6月3日付け、『Repubblica』紙に掲載された記事である。

ベルルスコーニ:国民投票は無意味 政府の政策にまったく影響しない

カナーレ5(放送局)のマウリ―ツィオ・ベルピエトロとの電話インタビューで、シルビオ・ベルルスコーニ首相は、ようやく先月行われた地方選挙の結果についてコメントをした。「我々は1点取られたが、まだ4-1で勝っている」。ここ数年の選挙の結果については、「確かに敗北はあった。1996年にはスカルファーロ(大統領)が受け入れた“大転回”(ボッシの政権離脱)後の選挙で敗れたし、2006年には左翼の不正によって2万5千票で敗れている。しかしその後、有権者は気付いたようで、2008年以降は一度も負けてはいない」

さらに、与党・自由の人民(党)の代表選については、「投票人が党を本当に支持しており、左翼が浸透していないことが確実ならば、反対はしない」とベルルスコーニは述べている。新代表候補としてはアンジェリーノ・アルファーノを推しており「自由の人民(党)党首が党内規を改正することで、アルファーノはあらゆる権限を持つことができる。3人の党内コーディネーターに、それぞれ適任だと思う任務を割り振るのも彼の仕事になる」と説明する。

また、6月12、13日に行われる原発に関する国民投票は「無駄な」投票になるだろうが、いずれにせよ「政府は国民の意思を尊重する」とベルルスコーニは述べている。「今回の国民投票は扇動的なイニシアティブによって始められたとはいえ、我が党の支持者に対して何ら指図はせず、選択は各人の自由に任せている」「飲料水の管轄に関する国民投票については、まったく馬鹿げてるしかいいようがない。というのも、撤廃するかどうか議論されているこの法律は、水の私有化を意図しているわけではなく、実際は無駄の削減を意図したものにすぎないからだ。原発政策撤廃に関する国民投票については、原発設置場所についての規定が既に廃止されているので、投票自体に意味がないと国民に呼びかけたい」

いずれにせよ「国民投票に際して、与党は特別な立場をとることはせず、国民の自由意思に従う」という。ただし、国民投票の結果は「政府には何ら影響を与えない」。さらに、経済大臣ジューリオ・トレモンティとの対立に関しては、まったく問題ないと言う。ベルルスコーニは述べている。「トレモンティの記念碑でも建てねばならないくらいだ。イタリアは、他のヨーロッパ諸国が採用したような経済政策を取らずに経済危機から脱出したのだから」。「我々はいかなる種類であれ、増税によって国民から金を巻き上げることは決してしなかった」「我々は2013年までは政権を運営しなくてはならない。2008年に有権者に誓った約束を守るためでもあるし、また現政権が、政権運営を請け負うことができる唯一の勢力だからでもある」

核兵器の処理に困りなんとか原発を続けたい米や仏の意向を受けて、ともかく儲かる原発を国民の意思を無視して何とか続けようと画策し、自分に都合のいい解釈で少しでも長く政権にとどまろうする。イタリアも日本も現在の政治状況はどこか似ている気がする。もっともナンニ・モレッティが『カイマーノ』の中で描いているように、ベルルスコーニは裁判を逃れるために意地でも権力を握っていなければならないのではあるが。

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2011年5月24日 (火)

ファルコーニ検事暗殺

1992年5月23日、マフィア捜査検事ジョバンニ・ファルコーニが暗殺された。パレルモ空港からパレルモ市内に向かう高速道路に爆発物が仕掛けられ、護衛もろともふっとんだ。暗殺者はマフィアの大ボス、トト・リーナの手によるものとされているが、未だに謎が残っている。

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同じく1992年にmani pulite(政界汚職摘発)を指揮して一躍脚光を浴び、現在は野党「価値あるイタリア」のリーダーとなっているディ・ピエトロと並んで、ファルコーニはイタリアで最もリスペクトされている人物の一人であり、メモリアルデーの今日はシチリアに、イタリア中からファルコーニを偲んで大勢の人が詰め掛けた。

ファルコーニと、その2カ月後に暗殺されるボッセリーニは命をかけてマフィアと戦ったおかげが、かつてのマフィアはほぼ壊滅状態だが、次々と新たなマフィア的なものは登場し続けている。

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2011年5月13日 (金)

イタリア大統領の就任日

イタリアでは第2代~4代までの3人の大統領が5月11日に誕生している。

1948年イタリア共和国2代目に就任した大統領ルイージ・エイナウディは、有名な経済学者で、反ファシズムを貫いた自由主義派だった。デガスペリ政権の財務・予算大臣時代には、厳しい経済引き締め政策によってインフレを抑え、イタリアの「奇跡的復興の足がかりを築いた。出版社エイナウディ社は、彼の息子ジュリオ・エイナウディが設立した出版社で、創設期にはチェーザレ・パベーゼやナタリア・ギンズブルグも関わっている(ギンズブルグの『ある家族の会話』では、創業間もないころのエイナウディ社の雰囲気が描かれている)。

1955年には、ジョバンニ・グロンキが3代目大統領に選出される。ドン・ストルツォの人民党初期のメンバーで、ファシスト政権初期には産業省次官として政権入りするが、ほどなくして下野し、その後は反ファシスト闘士として活躍する。後に盟友デ・ガズぺりとともに、キリスト教民主党を創設にも関わる。し、にも関わったグロンキは、、盟友デ・ガスペリとともにキリスト教民主党を指導していく。1943年7月のファシズム政権崩壊後には、 として活躍した。

4代目大統領のアントーニオ・セーニは首相経験者で、1962年に大統領に就任した。しかしその2年後、脳血栓で倒れ、唯一の任期途中で辞任した大統領となる。

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2011年4月 1日 (金)

騒然とする国会

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といってもイタリアの話し。裁判簡潔化の審議が延期され、国会は騒然となった。

投票数が等しい場合は、昨日の審議記録の承認が却下され、それは与党の敗北を意味する。野党は、防衛大臣ラ・ルッサのフィーニ下院議長に対する侮辱の問題が解決されないうちに投票にかけることを望んでいた。

そして審議は中断され議事録が新たたに作られることになるが、国会内は騒然としていた。
Pdl(自由の人民党)のアルファーノがフィーニに向かって新聞を投げる。また、同じアルファーノは議員証をIdv(価値あるイタリア党)の議席にいたイレアーナ・アルジェンティンに投げつけた。

「アルファーノ、辞職しろ」とディ・ピエトロ。「ぶざまな劇場だ」と発言したのは、ベルサーニとフランチェスキーニ。

国会の外では、与党が提出した時効の短縮にかんする法案に反対して、再び人が集まってきた。

昨日は、国会内での与野党間が侮辱し合い、国会の外では議員や閣僚に小銭が投げつけられた。議員たちは昨日の国会での、ラ・ルッサのふるまいをきつくとがめた。

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