経済・政治・国際

2014年1月24日 (金)

名護市長選挙と辺野古

2013年12月27日、仲井真沖縄県知事が辺野古の埋め立て承認を表明した。これにより、長年の懸案であった普天間飛行場移設問題が動き出すかに見えた。(沖縄タイムス12月27日より

しかし、年が明けた2014年1月19日の名護市長選挙で、辺野古移設反対を唱える稲嶺現市長が再選された。稲嶺氏は「(辺野古の)埋め立てを前提とする手続き、協議を全て断っていく」と明言している。(朝日新聞DIGITAL1月20日より

ちょうど仲井真知事が埋め立て承認を表明した翌日に、辺野古へ行く機会があった。辺野古の海は映像で何度も見たとおり珊瑚礁が続く本当にきれいな海で、10㎞程離れた東シナ海側の名護市中心部が沖縄とは思えない程寒かったのに比べて、辺野古がある太平洋岸は気温も高く暖かかった。


1643

辺野古港


1645_3

キャンプ・シュワブとの境界線


キャンプ・シュワブに隣接した辺野古港には移設反対運動のテントがあるが、そこに行く前に辺野古の集落に寄ってみた。集落の中心部を見ていると、ナポリ周辺の貧しい町を思い出した。町の人たちは穏やかそうで、道を聞けば親切に教えてくれる。その一方、崩壊しかけている建物もあって街自体に活気がないように見えた。目立つっているのは米軍専用のバーくらい。その当たりの細い道が入り組んだ街を、中学生くらいのヤンキーが3人徘徊していた。着ているものは全くみすぼらしくなく、話しかけたら気さくに答えてくれそうだったが、彼らが醸し出す雰囲気はまさにノーラとかカステッランマーレとかいったナポリ周辺の街にたむろしている若者のようだ。仕事もなくてどうしようもないけど、なんとかしようとも思っていない。単なる偏見でそう感じているだけではあるが。ともかく、彼らを見て辺野古移設反対運動をしている人たちとの間に何か接点はあるのだろうかと考えてしまった。


1642_4

辺野古移設反対運動のテント


辺野古の問題点の一つとして、一部の基地反対派の活動家と地元の人たちが乖離していることがあると、よく言われている。これは辺野古だけでなく沖縄県全体に言えることなのだろうが、県民所得が低く失業率が高い沖縄県の人たちにとっては、米軍基地による雇用は歓迎できることでもあるのだろう。移設反対の民意を示したとされる名護市長選にしても、どこまで地元の民意が反映されているのかという問題はどうしても残ると思う。名護市の中心部と辺野古の間には山があって、集落としては完全に分断されている。たとえば、「普天間基地の辺野古移設 反対する現地住民はいない」という記事でも触れられているが、名護市民全体が、中心部から遠く離れた辺野古の人たちの気持ちを代弁できるとは、言えない面もあると思うのだ。

今回、仲井真知事は、そのように名言してはいないものの沖縄への援助と引き換えに辺野古埋め立てを認めた形になってしまったため、今後も米軍基地撤廃と沖縄への投資がセットにされるのではないかと危惧されているようだ。これは前から問題になっている点でもある。反対運動をしている人の中には、基地反対を主張して騒ぐと金をもらえるので反対を叫んでいるという人もおり、新聞などのメディアも含めた沖縄のエスタブリッシュメント層も、そのような考えがあるという。沖縄が日本本土に搾取されているというよりも、沖縄の人たちが一握りの沖縄の富裕層に搾取されているという構図もあるようだ。

これは沖縄に行ってみると感覚的にわかる気がする。沖縄本島から離島には橋が架けられ、道路は不必要なほど整備されている。たとえば、うるま市の「海中道路」などはその象徴的な例ともいえるだろう。米軍占領時代、米軍の石油基地がある平安座島まで沖縄本島から直結する道路を作るために、橋をかけるのではなく、4.7㎞にわたって片側2車線の幅を埋め立てている。これは建築時に架橋技術が進んでいなかったせいでもあるが、建築業にとっては埋め立ての方が土木工事が増えるので喜ばしいことであろう。

これは辺野古移設にも言える。一時期、普天間飛行場移設先として辺野古沖ではなく、隣接するキャンプ・シュワブ内に飛行場を作るという案が出されていた。しかしいつのまにか議論されることもなくなり、辺野古沖の海上に飛行場を作るかどうかという選択になってしまっている。キャンプ・シュワブ陸上案は飛行線の問題などがあるようだが、それよりも土建業と関わりの深い前名護市長の島袋氏が、埋め立てなどの土木工事で需要を増やそうとして海上案を押し進めていたということもあるようだ。これについては、「普天間基地、辺野古移設問題を考える」で詳しく述べられている。

以上述べてきたことは推測も含まれているし特にキャンプ・シュワブ陸上案には反論も多々あるが、少なくとも土建国家のモデルから未だに脱却できていないことが沖縄の基地問題の根底にある、ということは事実だと思われる。

今回、辺野古港で反対運動をしている女性に話しを聞いてみたが、気さくではあるが真剣な顔で「仲井真知事が辺野古の埋め立てを許可したが、許可と実際の工事が始めることとは違う。工事が始まらないように、法的手段を含めてあらゆる妨害活動をする。私たちが負けるわけがない」と主張した。名護市長選で辺野古移設反対派の稲嶺市長が再任されたことで、工事差し止めは現実味を帯びてくると思う。しかし、土建国家のモデルを変えていかない限り、結局は根本的な解決にならないと思うし、むしろ米軍が沖縄にいることを沖縄側がますます望むようになるということも考えられるのだ。10年程前に完成したという辺野古反対運動のテントがある辺野古港にしても、珊瑚礁を破壊しジュゴンの生息地を奪ってまで、防波堤を作り十分なスペースをコンクリートで固める必要があったとは到底思えないのだから。そして、そのような工事の事例が、今回、沖縄のあちこちで目に付いた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月14日 (土)

サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン 青春と革命の時代』

今読んでいるが、翻訳も読みやすく面白い。

『スターリン 青春と革命の時代』Simon Sebag Montefiore Young Stalinは、『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』Stalin: The Court of the Red Tsar の続編で、後者は、まさにスターリンが権力を握ろうとする1930年代半ばからのスターリンを描いているのに対して、本作は権力を手に入れる前のスターリンの半生の研究である。2冊ともにスターリンの個人的な手紙や最近公開された様々な資料を元に、これまでは触れられることの少なかった生身のスターリン像が描き出されている。これまでのスターリンについての研究書は概して、政治やイデオロギーを分析することでスターリン像を逆に単純化してしまい、共産主義国家でありながら独裁主義国家でもあり、コスモポリタニズムでありながら国粋主義的でもあるソヴィエトへの理解を難しくしているように思える。対して本書の序文には、特異なソヴィエト体制というものを端的に表している一文がある。

実際、レーニン・スターリン主義の悲劇の多くのことに納得がいくのは、次のことに気づく場合だけである—ボリシェヴィキは、クレムリンに世界最大の帝国の政府を構えようが、あるいはチフリスの居酒屋の奥部屋で目立たない小徒党を立ち上げようが、同じ隠密スタイルで行動しつづけたのだと。

これと同じようなことは、前作『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』でも繰り返し触れられている。大粛正(テロル)、独ソ戦を経たソヴィエト政府の政策は、毎晩毎晩、夜が空けるまでスターリンの家で開かれた宴会で決まっていたのであり、モロトフもベリヤもフルシチョフも、そうした小さなサークルの常連であったのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月29日 (月)

1945年日米開戦直前まで、松岡洋右は対米交渉を粘り強く続けていた

1941年日米開戦直前まで松岡洋右は対米交渉を粘り強く続けていた。『月刊日本』2011年1月号、松崎哲久「日本百人の宰相 66 近衛文麿(1891-1945)」によると

(松岡は)日米諒解案の虚構を見抜いたのも、六月のハル提案に対する日本側対案を精力的にまとめたのも、職業外交官としての自負と責任感からであった。しかしこの絵の主観は、松岡外ししか眼中になくなっていた。七月二日には松岡の反対にもかかわらず、南部仏印心中を決定してしまった。

という。4月に近衛が個人的に交渉していた「日米諒解案」をめぐって松岡外相が激怒し、近衛・松岡の関係が疎遠になり、歴史的にみれば日米諒解案こそがハル国務長官の真意を見誤ったものであり、松岡が拒否したことで和平がつぶれたわけではなかったが、松岡が和平への障害だと思い込んだ近衛が、松岡を更迭するために内閣総辞職し、第三次近衛内閣を発足させたという。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 8日 (月)

金日成と朴正煕—満洲の朝鮮人—

五族共和を謳った満洲国では、朝鮮人は日本人に次ぐ民族とされて士官学校や官吏登用への道も開かれていた。朝鮮は当時すでに大日本帝国に組み込まれていたこともあり、多数の朝鮮人が満洲に移住したものの、漢人や女真人、モンゴル人からは日本人の手先とみなされ、厳しい立場に置かれた。

後に朝鮮民主主義人民共和国を建国する金日成も、そうした満洲の朝鮮人のひとりである。もっとも金日成は7歳のときに家族とともに満洲の吉林に移住するのだが、当時はまだ日本の支配は及んでいなかった。満洲事変が勃発した1931年、金成桂(後の金日成)は19歳で中国共産党へ入党し、25歳のとき(1937年)中朝国境の町、普天堡攻撃で抗日パルチザンの「将軍」として一躍有名になる。1940年の日満軍によるパルチザン討伐作戦で、金日成の部隊は壊滅。彼自身はソ連へと逃れ、日本の敗戦と同時にスターリンによってソ連支配下の朝鮮北部の指導者として送り込まれることとなる。

金日成は満洲国の教育機関に属したことはないようだが、日本人と関係がなかったわけではないだろう。北朝鮮初期の側近には日本人がいたと言われているし、孫の金正恩(息子・金正日の後継者)を育てたのは横田めぐみだという説もある。ソ連では野坂参三にも会っているようでもある(トリアッティとは時期的にぎりぎりかぶるが、あっていたかどうかは定かではない)。さらに金政権は日本天皇制および満洲国をモデルにした政権だということを考えると、金日成は日本をむしろ意識していたのだと言えよう。

ところで25歳でパルチザンの伝説的な英雄になったという件は、どこか引っかかるものがある。金日成が凱旋したとき、あまりにも若い「将軍」がたどたどしく演説するので、迎える民衆はとまどったという。実際、金日成の伝説はスターリンが意図的に作ったものだとも言われている。金成桂(後の金日成)はもともと金一星(キム・イルソン)という名前でゲリラ活動をしていたので、抗日ゲリラの「伝説の将軍」金日成と同じ発音であることに目を付けたソ連軍が、金成桂を「金日成」にしたてあげて朝鮮に送り込んだというのだ。確かに金日成は共産主義独裁国家を率いるには最適な人物で、後に金日成が行う粛正は、まさにスターリンを彷彿とさせるものである。

金日成より5歳下の朴正煕も満洲の朝鮮人であった。朴の場合は、貧しい農村に生まれたが成績が優秀であったため、日本人教師の勧めにより1940年に満洲へわたり、新京士官学校で教育を受けることとになる。士官学校を主席で卒業した朴正煕は、選抜されて日本陸軍士官学校へ入学。折からの創氏改名によって高木正雄と名乗り、陸軍士官学校を3位の成績で卒業。満洲軍中尉として満州国軍歩兵第8師団に配属されたところ終戦を迎える。

朴はその経歴からわかるように生涯親日だったと言われている。朴の兄は共産党幹部であり、1946年の暴動で警察に殺害された。朴自身も共産党員であったが、逮捕されて転向し、朝鮮戦争時に米軍に北朝鮮の内実を伝え軍役に復帰している。クーデターで大統領となると、日本をモデルにした経済政策を行い経済発展を実現させる。朴政権時代、韓国は北朝鮮を経済的に追い越し、現在の韓国の基礎が築かれた。日本の高度成長経済は満洲国の計画経済をモデルにしたものだと言われているが(岸信介など満洲で計画経済を押し進めた官僚、経済人が、実際に高度成長経済政策を行っていた)、朴のモデルにも満洲国があったのかもしれない。また共産党時代には金日成との接触があった可能性はないのだろうか。朴と金日成はともに国家元首として互いに激しくののしりあうような敵対関係となるが、お互いに相手のことをよく知っていたということは考えられるであろうか?

戦後、おそらく現在でもそうだが、東アジア政治外交史にとって満洲国は多大の影響を与えているのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月22日 (金)

ドーリットル空襲

1941年12月8日の真珠湾攻撃後、破竹の勢いの日本艦隊は米太平洋岸にまで潜水艦を展開、1942年2月24日には潜水艦搭載機により、ごく小規模ながら米本土への先制攻撃を行った。

これに衝撃を受けた米国民の士気を高めるため、米首脳部は日本空爆を検討していたが、当時は日本近海に空母が近づけない状態で、日本を射程距離におさめるソ連の軍事拠点も日ソ中立条約のため、ソ連から使用を拒否される状態であった。そこで飛行距離の長い陸軍の爆撃機を空母から発艦させ、爆撃後に中華民国の領土に着陸させるという計画を思いつく。陸軍爆撃機の空母からの発艦は、実戦では初めてのことだった。

1942年4月18日、ドーリットル中佐率いるB-25 爆撃機16機が空母ホーネットを発艦、うち15機が東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸を爆撃する。爆撃では日本側に死者87名、重軽傷者466名、家屋262戸の被害が出たが、空襲を行った米軍B-25は15機が中国に着陸できずに全損、1機がソ連のウラジオストックにたどり着き、ソ連軍に抑留される。

以上、Wikipediaの情報だが、次の一文は特に興味深い。

大本営はこの被害を隠蔽し、「敵機9機を撃墜。損害軽微」などと発表した。しかし当日は晴天であり、墜落した航空機など市民からは一機も確認されなかったため、大本営の発表に対し、『皇軍は空機(9機と空気をかけた駄洒落)を撃墜したのだ』と揶揄するものもいたという。

ソースは「佐々木冨秦・網谷りょういち「続・事故の鉄道史」(日本経済評論社、1995年)の77頁」ということである。戦時中は言論統制でがんじがらめにされた闇の時代だと見られているが、1942年の時点ではまだこうした「自由」な雰囲気が残っていたのかもしれない。これはイタリアのファシズム政権期にも言えることだが、後世、戦争への反省や嫌悪から、戦前における上からの抑圧を強調する傾向があるように感じる。もちろん言論は統制され抑圧されていたのは事実だろうが、また違った時代の雰囲気というものもあったのではないか。うろ覚えだが、荒俣洋が太平洋戦争中の市民の暮らしについての本を出していた気がする。またイタリアのファシズム期の民衆の生活を扱った本では、ジャンフランコ・ベネの『ファシズム体制下のイタリア人の暮らし』が翻訳されている。

また、米軍爆撃機のパイロットのうち8名が日本軍の捕虜となった。うち3名の死刑が執行され、病欠した1人を除く残り4人が米国に引き渡されたが、米国は野蛮人の蛮行としてプロパガンダに利用。当時首相になったばかりの東条英機を「血に飢えた独裁者」であると宣伝した。Wikipediaにはこのプロパガンダの風刺画と思われる画像が掲載されているが、どこからとったのだろうか?『ティファニーで朝食を』に出てきた日本人に似ている気がする。これが戦後になっても日本人のカリカチュアとして使われたのだろう。

Tokio_kid_say_2

尚、この空襲で太平洋戦争の戦況が一転したわけではなく、米国政府は事実を隠したが、この後も、日本海軍の潜水艦艦載機は米本土への空襲を行っている。また、山本五十六もドーリットル空襲に刺激されて、ミッドウェー島攻略を急いだというわけではなかったそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月18日 (月)

太平洋戦争、西亜作戦と独伊

月刊日本4月号の西村眞吾「東京大空襲の日に想う」という記事を書いている。

日本が真珠湾攻撃をする直前の1941年11月15日、大本営政府連絡会議で大東亜戦争の基本的戦略が定められた。これは、第一弾作戦である南方作戦、第二作戦の対支那作戦・西亜作戦、そして第三作戦の対米作戦の三段階で作戦を進めるというものであった。

南方作戦でアジアにおける米英オランダの拠点を壊滅させた後、西亜作戦でインド洋を制圧することで、連合国の輸送大動脈を遮蔽してイギリスを追い詰めることができる。インド洋を抑えれば蒋介石の戦争遂行能力は枯渇し和平がなり、同時にイギリスからの物資が届かないインドの独立が成功すれば、米国はアジアにおける戦争の大義を失うと考えられていたのだ。

さらにこの西亜作戦はドイツのロンメル元帥指揮下のアフリカ戦線の帰趨にも関わってくる。苦境に陥っているイタリア軍を助けるためにトリポリに上陸したロンメル率いる独軍戦車隊は、英軍拠点のアレクサンドリアを目指して東へと突き進み、1942年6月21日にはトブルクを占領する。ところが戦車や物資の補給を受けた英軍はエル・アラメインでロンメル軍団を辛くも抑え、11月3日には撃退されてしまう。

当時、イタリア海軍のおかげで地中海を完全に支配できなかったイギリスの戦車の補給路はインド洋だった。ここで、日本の独伊との連携が重要になってくる。というのも、1942年前半には日本帝国海軍はインド洋をほぼ手中に収めており、ロンメルもエジプト目前まで迫っていた。インド・エジプトという二大植民地を奪われれば、イギリスは降伏を余儀なくされていたと思われるのだ。

だが西亜作戦成功目前で、連合艦隊司令長官山本五十六は艦隊をインド洋からミッドウェーへと転換させてしまう。その理由は、1942年4月18日に決行されたドーリットル中佐に率いられた東京初空襲である。当時、西太平洋の制海権を失っていた米軍は、日本本土空爆で形勢を逆転したかったのだが、日本近海に近づくことすらできない。そこで、空母から出撃させ日本上空を横切って、中国の蒋介石氏支配下の地域へと着陸する計画を立てた。この「特攻隊」のような空襲に神経を逆なでされた山本は、米艦隊の空母軍を壊滅すべくミッドウェーへと突き進み、太平洋戦争の転換点となったミッドウェー海戦を引き起こすことになる。

以上は、この記事の枝葉の部分ではあるが、日独伊の連携を考える上で面白い視点だと思ったので、引用した。

実際、山本がミッドウェーに艦隊を向けたのは4月16日付大本営海軍部指示によるものであり、4月18日のドーリットル空襲が原因ではない。また、エルアラメインの独伊軍敗北は、独伊軍の戦線は伸びきっていて補給はすでに限界に達していたこと、参戦が決まった米軍からレンドリース法により英軍は補給を受けられたこと、ロンメルの不在中に奇襲を受けたことなどの理由による。

また日本が南方作戦をとらずに北へと向かっていたら、スターリングラードまで有利に進めていたドイツ軍と日本軍の両面作戦を余儀なくされたソ連は壊滅していたかもしれず、イギリスの植民地を奪うよりもはるかに効果があったのかもしれない。とはいえインド洋・地中海での日独伊三国の連携は、地政学的にあまり関係のなかった三国同盟の意義を考える上での、一つの面白い視点だとも言えよう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年4月14日 (木)

原発廃止か継続か

いわゆる「アルファブロガー」の池田信夫が、言論プラットフォーム「アゴラ」上で「問題は「脱原発」ではなく「電力の全面自由化」である」と題する記事を書いている。

要旨はこうだ。

エネルギー政策の中の電力の中のオプションの一つが原子力であり、それを無視して原子力か否かの論争にはまり込むと収拾がつかなくなる。電力に過剰に依存した社会は脆弱であり、化石燃料を電力に変換するような非効率なことはやめるべきであり、電力の統制は、計画停電のような統制経済ではなく、電力税などによってピーク時の電力消費を抑制する政策をとるべきだ。

電力会社はもはや「自然独占」の一種ではなく、地域ごとに数社に分割して競争させた方がいい。ただ送電網には自然独占性があり、強い規制が必要になるので、東電は送電会社になり、発電会社は分割して売却すればよいのではないか。また、原発のコストは、核燃料サイクルなどのサンクコストや事故のリスクを考慮にいれると、火力発電に劣る可能性もある。

それらを踏まえ、それぞれの発電会社が、リスクよりリターンが大きい(と電力会社がみなす)原発か、低コストだと反原発派が主張する再生可能エネルギーを選ぶかを決めればよい。

このとき、発電会社の採算性が市場で問われよう。原発のコストは、公式には化石燃料に近いことになっているが、総額で18兆円に及ぶ核燃料サイクルなどのコストが算入されていない。こうした巨額のサンクコストが電力会社が原子力に固執する理由だが、株式市場はサンクコストを無視するから、事故のリスクを入れてプラントの割引現在価値を計算すると、原発は火力発電に劣る可能性が高い。このように電力業界を全面的に自由化し、市場メカニズムを活用して日本経済を活性化することが、復興の制度設計のモデルとなろう。

原発に関してはまさに百家争鳴という感じで、池田信夫の見解は納得できるところもあるが、現実的な解決にはまったくといっていいほど役に立たないだろう。

ともかく、原発が必要かどうかという問題は、池田が言うように、しばしば極端な対立に陥ってしまう。原発推進派はテレビでCMを流し続けて原発の安全性を強調し、事故が起こってもひたすら安全にみせようとする。対して反原発派は、今回のような事故が起こるたびに、この地震の多い国にいかに危険なものがあるのかということを強調し、日本の技術の高さには目をつぶる。

筆者は個人的には原発廃止論者で、浜岡原発のようなプレートが3つも重なる危険なところで運転している原子炉は即刻止めるべきだと思うが、現実問題として止められるのだろうか?夏の消費電力ピーク時に原発を全部止めても火力でまかなえるという論があるが、火力がCO2や公害を撒き散らして問題だから原子力への流れができたのではないか。また、原子炉の運転を止めたとしても、一度臨界した燃料棒の熱が冷めるまでには数か月かかる。その辺の議論は西條剛央がよく整理している(参照:「広くわかりあうための原発論とは?」)。結局代替エネルギーを探すしかなく、そこがいち早く脱原発を表明し、代替エネルギーを開発しフランスからも電力を買えるドイツとの違いなのかもしれない。ただいつまでも福島第一原発と余震のゴールが見えない現状では、とりあえず全原発を止めるしかないのではないか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月12日 (火)

ふんばろう東日本プロジェクト

早稲田大学MBA専任講師であり、構造構成主義を体系化したことで有名な西條剛央が立ち上げた「ふんばろう東日本プロジェクト」は画期的な震災被災者救援プロジェクトである。西條が立ち上げたと書いたが、もともとは仙台出身の西條が震災に対して何をやれるのかを模索し、行動しているうちに、支持者を集めて自然発生的に発達していったのがこのプロジェクトである。

高度情報化社会の現在では、東北地方の津波や被災者の方たちの情報は全国、いや全世界に伝わり、支援物資は山ほど集まる。しかし集積点である行政の能力が足りず、もしくは行政そのものが機能していないため、ある避難所は物資であふれているのに、メディアの取材も入らない孤立した避難所では、基本的な物資である食糧や水でさえ足りていないという。

また物資と一言で言っても様々なものがあり、物資の山も実は仕訳しきれずにおいてあるだけということもある。さらに言うと、例えば毛布が300枚あって避難者が400人いたとすると、不平等が生じるからといって毛布を誰にも配布しないということも起こっているという。そうした状況を見て、本当に必要なものを必要なところへ届けるマッチングサービスがこのプロジェクトの始まりである。西條は言う。
 

津波主被害地はテレビで報道されているのとはまったく違う本当の“壊滅”が延々と広がっていました。


行政は未曾有の事態に対応できる組織構造になっていないためどうすることもできないのです。ボランティアが足りているのではなく現場でだぶついていて使えていないだけです。物資が足りているのではなく局在化していて、末端に行き渡っていないだけなのです。

 他方でネットだけを使ったマッチングシステムはたくさんありますが、津波主被災地の現実を踏まえたものではないため、最も必要とするところでまったく機能しないという問題があります。ネットがつながったとしてもそこは高齢者も多く、パソコンのできる人自体がいないのが現状です。

こうした現状を打開するために、被災地に行って支援を行いつつ、そこの人と連絡をとれるようにして窓口になってもらいます。 現地での前方支援と全国からの後方支援を効果的に連携させることにより、行政を介すことなく、被災者個々人が必要とする物資やサービスを、必要なところに必要な分だけ無料で届ける画期的システムが「ふんばろう東日本プロジェクト」なのです。


ここで画期的なのは情報伝達の手段である。震災直後、携帯が繋がらない中、情報入手手段としてのtwitterが脚光を浴びた。しかもtwitterは情報入手するだけでなく、情報発信も簡単にできる。さらに、社会的に無名(twitterの場合フォロワーが少ない)でも、有名人(フォロワーが多い人)にリツイートしてもらうことで、他の手段では広く知られることがほぼ不可能な重要な情報を拡散することまでできる。

「ふんばろう」プロジェクトでは、避難所ごとにリーダーを見つけ、必要なリストをサイトにアップし、Twitterで募集をかけて全国から送ってもらうという仕組みを作りあげた。また、amazonの全面協力を得て、現地の要望にあわせたwish listを作成し、クリック一つで支援物資を送ることも可能となった。さらにgoogleと連携して各避難所の基本情報と、求めている品物の項目と数が表示されいく仕組みもつくりたいという。また、高校生が作ったと言われていた(実際は違ったが)必要物資・支援要求マップなどのようなマップも利用できるだろう。

被災地の映像はUstreamやYouTubeにアップされているが、実際は映像なんかでみるような生易しいものではないのだろう。誰かが言っていたが、アナロジーとしては戦争で絨毯爆撃を受けたようなものだという。また1か月以上も避難所暮らしを強いられている被災者の人たちの問題や気持ちは、衣食住にまったく不自由がなく、テレビや新聞から流れる原発の放射能と余震を何となく怖がっている東京に住む人たちには、とうてい理解できないのだろう。だからといって、大半の人は何かをしてあげなくてはという気持ちだけは持っている。西條の言葉を借りれば、結局はリミッターを外して希望を作りだせる人間の力だけが、被災地を救う、というより一緒に復興できるのだろう。

「僕らは自らの手で“希望”を生み出す力があるのですから」というように、すでに多くの人から賛同され多くの希望を生みだしいる。また福島の野菜をガイガーカウンターでチェックし、安全が確認されたものを小売できるような仕組みを作ろうとするなど、どんどん画期的な仕組みを作っている。近い将来、震災援助の先駆的モデルとして世界中に広まるのかもしれない。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月11日 (月)

高円寺のデモ

原発反対のデモ。

小さいころ親に連れて行かれたデモと違い、バンドが軽トラに乗って演奏したり、みんな仮装したりと、お祭りのようだった。まるでイタリアで頻発するデモのよう。イタリアではデモは一種の祭りみたいなもので、例えば今回で言えば、参加者が原発を本当に理解しているかとかいったことは関係なく、とりあえずみんな楽しんでいる。今回のデモはそんな感じで、とても面白かったと思う。


ただ、これは関係ないのでは??
110410_095

110410_100

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月 9日 (土)

都知事選『選挙公報』

週末は都知事選なので『選挙公報』を見直す。

石原慎太郎が主張していることは字面からはいちいち納得できる。行動力もあるのだろう。しかし、例えば中小零細企業の支援と言うが、実際どこまで考えているのか。また「すべての子供は社会の宝」と言うが、「福祉改革」の名の下、福祉費を削ってきたのが過去12年の石原都政。新銀行東京やオリンピック、マンガの表現規制等については、『選挙公報』のスペースが限られているせいもあるのだろうが、一切触れていない。石原慎太郎が再選したら、良くなる面もあるのだろうが、ますます庶民から乖離した東京都になってしまう気がするのは気のせいだろうか?

小池あきらは福祉・防災をメインに据えて、反石原都政を鮮明に打ち出す。誰がどう見ても共産党の主張。すこしでも左翼アレルギーを払しょくしようと無所属で立候補したのだろうか?雇用増大、都立病院を残す、「特養」老人ホームの増設、などの公約は否定しようがない。石原慎太郎の公約に比べると多面性がない。まあそれは現職との違いと言えなくもないが、都知事として多岐にわたる政策を実行しなければならないことを考えると、確かに見劣りはする。

わたなべ美樹は、経営力を都政に生かすというが、具体的な方法がほとんど見えてこない。政治に初挑戦なのでしょうがないとは思うが、気力・体力でがんばろう、という『青年社長』そのままのノリではどうなのだろうか。

精神的・概念的な話しかしていないという点では、東国原英夫も同じ。県知事として公報に徹し、宮崎県の知名度をアップさせたのは評価できるが、今回の都知事候補としての公約とはほとんど関係ない気がする。だいたい今回本当に当選する気でやっているのかは多少疑問がある。

その他の人はネタなのだろうか?赤信号でも左折できる規則をというおがみおさむ、攘夷を掲げるふるかわ圭吾、自分の経歴を延々披露するドクター・中松、実行できないようなざっくりとした政策を提案する谷山ゆうじろう、スマイルセラピーで東京革命を企てるマック赤坂、電磁波について言及する杉田健、核兵器と平和を願う姫治けんじ。そもそも、石原慎太郎と小池あきら、そして東国原以外は、国政と都政の違い、憲法・法律と条例の違いを理解しているのだろうか?

少し話は変わるが、『文芸春秋』の芥川賞選考会での石原の発言は、既成のものからはずれた表現、内容、言語を徹底的に酷評していた。特に舞城王太郎への批判ではそれが端的に表れていた。しかし、半世紀前に自分が芥川賞を受賞したときはどうだったのだろうか?それは昔のこととして切り捨てているのか?石原慎太郎をみていると、以上のような違和感を常に感じていた。うまく言えないが、石原都政にしても、そうした何か辻褄の合わないようなものを常に感じる。口では都民のためと言いながら、小泉・竹中路線と軌を一にするような小さい行政に突き進み、石原慎太郎や政財界を中心としたその周りの人たちが望む社会になっていく。彼らは「普通の人」たちの何倍も頑張りがむしゃらに働き、「普通の人」のために社会を改革たという充実感・達成感を持つだろうが、「普通の人」との感覚の違いに気付くことがない。そして、気付いたら、東京は発展するものの規制やら何やらで普通に暮らし難い街になっているような感じ。

そのように漠然と感じている人はけっこういると思うが、石原都政を終わりにしたくても、他がいない。小池あきらは都知事としてやらせて見てもいいとは思うし、個人的には推したいが、やはり日本には共産党アレルギーが未だ根強くあるような気がする。はっきりと「共産党アレルギー」と意識してはいないが、「でも共産党では・・」という人はたくさんいるのだろう。こう見ると、石原慎太郎が「まわりを見渡し、誰もまかせられる人が見当たらなかったので立候補した」というのも、あながち方便とは言い切れないと感じてしまう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧