イタリアにとっての5月20日とは
1882年、今から127年前の今日5月20日、イタリア王国はドイツ帝国(プロシア王国)、オーストリア・ハンガリー帝国と三国同盟を締結した。
これはドイツ帝国宰相ビスマルクのフランス包囲網の一貫であり、伝統的にオーストリアと仲が悪いイタリアにとって外交上画期的な方向転換でもあった。
現フランスのサヴァイアおよびピエモンテを本拠地とするサルディーニャ王国がイタリア半島を統一し、イタリア王国を成立させたのは、三国同盟締結のわずか20年ほど前、1861年のこと。このイタリア統一運動、いわゆるリソルジメントを成し遂げたのは、サルディーニャ王国宰相カヴールだといっても過言ではない。カヴールは1855年にクリミア戦争にサルディーニャ兵を送ることで、翌年のパリ会議で独立戦争に対するイタリアの立場をヨーロッパ中に知らしめる。また統一直前の1858年には、当時飛ぶ鳥を落とすほどの勢いだったナポレオン三世との二者会談にこぎつけ、独立戦争へのフランスの参戦を約束させる。
そして、そのイタリア独立戦争の相手というのが、当時のロンバルディア(ミラノなど)やヴェネト(ヴェネツィア)を支配していたオーストリア・ハンガリー帝国だった。オーストリアに勝利し独立を手に入れたイタリア王国は、以後、ドイツ統一を競ってオーストリアと敵対していたプロシア王国と手を結ぶ。
その後、プロイセン王国は、宰相ビスマルクの下、普墺戦争、普仏戦争に勝利してヨーロッパ1の強国になる。一方、イタリア統一の年(1861)にカヴールを失ったイタリア王国は、ビスマルク外交に翻弄され続け、1877年のベルリン会議の失敗を取り戻すべく、ビスマルクに誘われるまま、オーストリア・ハンガリー帝国と手を結んで三国同盟を締結することになる。
この三国同盟は数度延長されることになるのだが、最終的には、三国のうちのどこかが攻撃された場合、他の二国には参戦の義務が生じるのだが、攻撃をしかけた場合は除くという但し書きがついていた。その但し書きが後の争点となる。
1915年、今から94年前の今日5月20日、イタリア王国はドイツ帝国(プロシア王国)、オーストリア・ハンガリー帝国との三国同盟を破棄し、オーストリア・ハンガリー帝国に宣戦布告する。
前年の1914年にオーストリア・ハンガリー帝国がセルビア王国に宣戦布告すると、同盟条約でがんじがらめ状態であったヨーロッパの列強は同盟条約を発動せざるを得ず、自動的に二つの陣営に分かれての大戦争に巻き込まれる。ただし戦争の準備ができていなかったイタリアは、オーストリアが一方的に宣戦を布告したということで、三国同盟から中立を承認される。しかし、各国とも短期で決着がつくと思っていた戦争が、前代未聞の総力戦よおび長期戦の様相を呈してくると、両陣営はイタリアを取り込もうと画策しはじめる。その結果、伝統的に反オーストリアの感情が強いイタリアは、統一後もオーストリア領として残っていたチロル地方やトリエステなどを戦後はイタリアに返すと約束したイギリスになびき、結局、三国同盟を破棄してオーストリアに宣戦布告することになった。
ということで、5月20日は偶然にも三国同盟が始まった日でも終わった日でもあり、イタリアにとっては象徴的な日でもある。というのもこのイタリア王国の優柔不断さとある意味裏切りといえる行為は、第二次世界大戦時にも繰り返されるのである。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


最近のコメント