書籍・雑誌

2012年4月21日 (土)

李命英『金日成は四人いた』

伝説の英雄「キム・イルソン」は北朝鮮の領袖の金日成か?

この本の著者・李命英は、幼い頃に聞いた英雄の名前と1945年に平壌に姿を現した金日成は同一人物ではあり得ないと疑問に思い、金日成の正体を明らかにしようとした。

「キム・イルソン」伝説の矛盾は、1907年の義兵闘争、1919年三・一独立運動、そして1937年6月4日の普天堡襲撃のどれにも、「キム・イルソン」将軍が関わっていることである。

1945年に登場した30代の青年将軍が、1907年に指揮をとっていたことはあり得ない。1907年の義兵闘争とは、韓国統監府による韓国皇帝強制譲位と韓国軍解散に反対した軍人たちが起こした抗日義軍である。日本側の記録に「キム・イルソン」の名はないが、白頭山を拠点に活動する少数の「キム・イルソン将軍」率いる部隊の記憶は残っているという。

1907年、18、9歳で義兵として立ち上がった金昌希は、金一成(金日成①)と名乗って五峰山に拠り抗日遊撃戦を繰り広げる。その後、地方の有力者を捉えたため警察から追われて白頭山に拠点を移し、三・一独立運動では独立武装闘争を強化。1922年に一度日本の警察に捕まるが脱出し、伝説となる。おそらく1931年満洲事変に際して反日部隊の中に名前が無いのを見ると、おそらく1920年代後半には亡くなったのであろう。

また、それとは別に、日本陸士卒の「キム・イルソン」将軍という伝説もあったという。これは、1911年に陸軍士官学校を卒業した金光端(金日成②)であろう。金光端は、私費で日本に留学し日本軍将校となるが、三・一独立運動の折に傷病休職を願い出て帰国。1919年6月に満洲にわたり、独立軍兵士養成所で軍事教育を始める。その後、武器調達のためソ連に入り、独自の抗日闘争を始める。赤軍と協力はするが、共産主義者ではなく、1923年の朝鮮国内の新聞東亜日報による独占インタビューでは、白馬にまたがって指揮をした、と書かれている(白馬に乗った将軍というのも、金日成伝説の一つである)。日本側資料に関しても、鎌田沢一郎『朝鮮新話』に、シベリア出兵の際に「金日成」が正面の敵だったという記述がある。日本軍のシベリア撤退とともに、ソ連政府は日本の再介入を恐れて抗日部隊の武装解除を強制。金光端は露満国境で屯田制実施し将来に備えて軍事訓練を実施していたが、1925年の日ソ基本条約を期に共産主義者たちとは決別し、満洲で地下運動を続けていたようだ。

さらに、1937年の普天堡襲撃の金日成は、彼ら二人とはまったくのない金成柱(金日成③)という人物である。1934年にソ連か関係ら満州に派遣された東北人民革命軍第二軍第二師に参加した金成桂は、抗日パルチザン時代の金日成の最大の功績としてよく引き合いにだされる普天堡襲撃(レーニンの宣伝画とほぼ同じ構図の宣伝画もかなりの程度流布されていた)を指揮して、一躍有名になる。その後、金成柱が死亡すると、彼の部下である金一星(金日成④)が「キム・イルソン」の名を継ぐ。この第二方面軍では、「キム・イルソン」という名前が大事だったのであり、通常の作戦においても、撹乱のため各小隊の隊長がそれぞれ「キム・イルソン」を名乗っていたという。そして、その中の一人に後の北朝鮮の領袖・金日成もいた。

北朝鮮の領袖・金日成の本名は金聖柱で、1912年生まれ。若いころから共産系馬賊に属していたごろつきであったが、満洲事変後に張学良が共産主義者への抑圧を強めると朝鮮革命軍に逃げ込み、そこで信用されていないと気付くとすぐに革命軍を飛び出す。これは1932年のことであり、それから1945年10月に「金日成将軍」として平壌に姿を現すまでの記録はない。とはいえ、1940年12月に野副討伐軍に追われた抗日連軍の敗残兵がソ連領に逃亡したのだが、その中の一隊が第二方面軍長金成柱(金日成③)に率いられた部隊で、金日成もそのうちの一人だったと推測できる。それから5年間、ソ連でスパイの訓練を受けていたためロシア語は堪能であったそうだが、偽の経歴を作り上げるためにソ連には一度も行ったことがないと公式に表明し、実際は必要ないにもかかわらず、ソ連の軍人に会う時も通訳をつけていたという。ちなみに息子のユーラ(後の金正日)はソ連で生まれた。

金日成の経歴は、井崗山、瑞金、長征、延安と革命拠点作りと対日闘争を展開してきた毛沢東の経歴を手本にしているというが、毛沢東の経歴も作られたものである。また、農民からの搾取や敵対する人を虐殺するなど金日成の本性は悪辣非道だというが、毛沢東の残忍さには比ぶべくもないであろう。

ともかく1945年の段階で、スターリンとベリヤが牛耳るソ連の政策は、「すべての占領地域に共産政権をうち立てて、その政権を徹底的に傀儡かすること…占領地域に自分たちが認めることのできる共産党がすでに存在する場合を除いて、ソ連の忠実な下僕となるように仕込んだ人間たちの中から適任者を選び出し、その地域の責任者に据え」るというものであった。そしてそうした責任者はある程度、その国において何らかの社会的業績や名声のある人物である、といった条件が必要であった。そうした状況で、スターリンと共通する権力志向と粛正を好む性向を持った金日成が選ばれたのであろう。

馬賊あがりのゴロツキであった金日成には国家統治能力はなく、北朝鮮の基礎を気づいたのは金策であり、朝鮮戦争中に死ななければ金策は金日成にとってかわって北朝鮮を統治し、現在まで続く世襲国家はなかったであろうと著者は言う。しかし金策は金日成に暗殺された可能性も高く、そうした政敵を排除するような曖昧な部分の能力があったからこそ、スターリンやベリヤは金日成を北朝鮮の首領に選んだのではないだろうか。


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2012年3月27日 (火)

タブッキとペレイラ

アントニオ・タブッキがリスボンで死んだ。癌だったそうだ。

タブッキの作品で一番面白いのは、やはり『供述によるとペレイラは…』だと思う。真夏のうだるようなリスポンが目に浮かぶような物語。「リスポンの町はきらきらと輝いていた」のように訳す須賀敦子の日本語も情緒が出ていていいけど、イタリア語の原文がまた素晴らしいと思った。(そういえば、ペルージャでお世話になった先生も、ローマ同居していたマルコも、完璧なイタリア語として紹介してくれたのが、この「Sostiene Pereira」だった)

日増しに言論が抑圧されていくサラザール政権下、ちょっとした地位も名誉もあって日和見的だった新聞記者ペレイラが、ふとしたことで知り合って肩入れした左翼の若者が自分の家でリンチにあって殺されたのを目の当たりにし、自由のために立ち上がる、というよう感じでストーリーは要約できる。そうするとよくある図式的な小説のように思えるかもしれないけど、実際はよく練られた小説であり、最後にポルトガルを飛び出し祖国の真実を訴えるペレイラが供述する形で進んで行くという手法もうまく活きている。

最も印象深いのは、ペレイラが温泉治療への旅の途中で電車から眺めたコインブラの海岸で若く力あふれる過去の自分を回想するシーン。誰からも好かれた若いペレイラは、なぜか地味な女性に気を引かれ結婚することになる。病気がちな彼女は、ペレイラが供述しているときにはすでに亡くなっているのだが、そのあたりの機微については「供述したくない」と言う。

そんなペレイラを読んで、映画も見た5年程前にちょうどリスポンに行く機会があった。リスボンでは、イタリア語版文庫本の表紙に使われているパスティッチェリアを見れたし、ファドが流れて時間がゆったりとすすむ1930年代のリスポンの夏の雰囲気もなんとなくわかる理解できた気がして、感激した。

『インド夜想曲』や『レクイエム』なんかも幻想的で面白いし、短編集なんかも秀逸だけど、どちらかというとこの『供述によるペレイラは…』と『ダマセーロモンテッロの失われた首』という、どちらかというと社会的な作品の方が個人的には好きだ。それにしてもタブッキが死んだのは本当に残念だ。

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2011年7月24日 (日)

『日独伊防共協定前後』

『日独伊防共協定前後』(新日本出版社、1980年)という本を読んだ。1936年11月に日本はナチス・ドイツと「防共協定」を結ぶわけだが、この第二条「第三国にたいする反共の防衛措置」をよりどころに、華北の「赤化」防止を要求し日中戦争へと突き進んでいく。本書は『赤旗』紙上で連載されたインタビュー記事を元にしたもので、大岡昇平や千田是也など著名人へ、この防共協定時の思い出についてインタビューをしたものである。1980年という時代の影響からか左翼的なバイアスがかかっているところもなくはないが、興味深い点もいくつか見られるので、以下列挙する。

鈴木安蔵
防共協定で日本のイデオロギー統制が確立したといえ、この頃から『中央公論』や『改造』などの大衆誌の紙面からいっさいファシズム批判がなくなっていく。

嬉野満州雄
1939年にイタリアに行き10カ月ほど滞在したという。

当時のイタリアの人びとは、ファシズムはもうたくさんだ。生活は少しもよくならないし、戦争も、いやだという気分が充満しているというんです。言論・表現の自由はまったくありませんでした。ムソリーニが気どって雄弁に演説するのを新聞は大きくだすくらいですね。(p51-52)

また、41年に松岡外相が訪独したとき(ローマ訪問の後であろう)、嬉野はワルシャワのゲットーを見たという。

高田博厚
ロマンロランとも親交を結び、パリで「日仏新聞」を発行していた。「和平提唱」を抱き続けてきたバチカンの政治顧問とも親交があったという。これは金山政英と関係があるのだろうか?

ところで、

1940年11月、「勤労新体制確立要綱」にもとづいて、いっさいの労働組合を解散させ、新しい労働者統制組織として大日本産業報国会が発足した(p98)
これはイタリアの共同体と関係があるのだろうか?当時の日本側の記録でcorporativismoを調べてみればわかるのだろうか?ちなみに本書では「協調組合」として以下のように説明している。
イタリアでは、1925~26年に大衆的、階級的労働組合が壊滅したあと、全国民を雇用主と労働者の二つの平行する官営職業組合に所属させ、この組合を基礎に各生産部門別に、労資同数の代表を選出し、それにファシスト党から各組合に三名の代表が参加して「協調組合」がつくられました。これは生産活動の組織にあたるとされていますが、実際には、一部資本家の利益に労働者を従属させるためのものとなりました。この協調組合の全国協議会とファシストの幹部党員が合体した「ファッショおよび協調組合会議」が従来の下院にとってかわります。(p122)

山崎功
イタリア共産党に入り込んだ唯一の日本人であろう。1925-26年に、イタリアから帰国した下位春吉に会っているという。山崎によると
イタリアに滞在中、第一次世界大戦にあい、金に困りイタリア軍に志願してムッソリーニと同じ塹壕で戦ったとのことでした。そのときムッソリーニと知りあって、のちに日本人ファシスト第一号となったのです。下位さんには、ムッソリーニが社会主義者の暴力から国を救ったと感じられたようで、それを得々と語ってくれました。(p110)
ということだが、下位の足跡はまだよくわからないところがあるのではないか。ところで、下位の他にファシストとなった日本人はいたのだろうか?

イタリアの特高警察OVRAは、1930年代には10万人ほどになっており、反ファシスト、教会関係者、国外亡命者、ファシスト内の対立派のリストをつくっていたそうだ。しかし1940年代になるとファシスト政権の力は急速に衰える。上述の嬉野は1939年にイタリアの人々はファシズムにうんざりしていたという。1939年5月にドイツと鋼鉄同盟を結んだあたりから、もともとドイツ嫌いの国民も多かったこともあり、ファシスト政権は求心力を失ってく。1940年の対仏宣戦布告の演説ではヴェネツィア広場を埋め尽くすほどの人が集まったが、山崎はそれを見て述べている。

私は、1940年6月10日にムッソリーニの参戦演説を取材にいきました。ムッソリーニの演説のあと一部のファッショ党員は「ドーチェ(統領)!ドーチェ!」と叫びたてるのに、多くの大衆は沈黙のままで実に対照的な光景でした。エチオピア侵攻(1935~36年)、スペイン内戦(1936~39年)への介入で国力を消耗したあとでしたから、国民は参戦を望んではいなかったのです。世論調査でもやられたら、おそらく参戦に「ノー」の答えが出たでしょうね。(p115)

岩崎昶
ドイツ・イタリアの映画と日本の映画について。

(当時イタリア映画と)もっと政治的に露骨な意図をもった企画がやられているんです。いま考えると実に不思議なんだけれども、レオナルド・ダビンチをファシズムの立場でかつぎ出したことがある。ダビンチは、ああいう幅の広い万能の天才ですから…(中略)…その軍事科学の面を大きくクローズ・アップして、上野の不忍の池のほとりの博覧会会場で展覧会をやったんです。これの日本側の主催は「哲学者」と称した小島威彦と川添紫朗などが組んだ「戦争文化の会」。これは常設的な会で、戦争賛美のために「戦争は文化の母だ」というスローガンをたててやっていました。(p162-3)
イタリア側の史料はあるのだろうか?

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保坂正康、広瀬順嘉『昭和史の一級史料を読む』平凡社新書2008年

満州事変あたりから終戦、GHP占領時代にかけての歴史は謎の部分も多かったが、ここ10年ほどの間に一級史料の発掘が相次いでいるという。そうした史料をどう扱うべきか「昭和史研究の第一人者と、資料発掘の専門家が「史料の裏表」を縦横無尽に語り合」ったのが本書である。

昭和史の一級史料を読む (平凡社新書)

著者:保阪 正康,広瀬 順皓

昭和史の一級史料を読む (平凡社新書)


この時期の代表的な資料としては、『木戸幸一日記』や『西園寺公と政局』『牧野伸顕日記』など昭和天皇側近の日記が挙げられるが、これらを読み比べるとニュアンスなどの違いがけっこうあるのがわかる。こうした史料を読む場合、重要なのは書いた人の立場や状況、そのときの著者の考え方、また史料がでてきた背景をふまえることが大切だという。例えば『西園寺公と政局』は東京裁判時の証拠として出されたものであり、その内容にはどうしてもバイアスがかかってしまう。また西園寺公望は昭和初期には元老としての影響力を失いつつあったので、満州事変の朝鮮軍越境問題や五・一五事件に関する記述を読む際には、西園寺が天皇の側近として状況をすべて把握していたわけではない、ということを前提とする必要もある。

また官僚の伝記も注意が必要だという。戦前は現在と少し官僚システムが異なっていた。知事も官僚が勤めていたし、選挙に立候補して政治家になる官僚が今より多かったという。というのも、当時の官僚は議員になっても免職にならず、籍は官庁にあったため落選しても元の職にすぐに戻れた。広瀬が言うように

官僚政治家は当然出やすいんです。それにひきかえ党人政治家は落ちるか当選するかしかない。だから戦時中は「軍官民一体化」とよくいわれますが、戦前にも「官政一体化」というのが戦後とは違う形であった(p42)

外交官に関しては、きちんとした回想記や伝記があまりない。その中で内閣情報局総裁を務めた天羽英二は『天羽英二日記』を出している。これを使った研究があまりないというが、イタリアの日本外交史研究家ヴァルド・フェッレッティは天羽英二や天羽声明によく触れているが、『天羽英二日記』も使っているのだろうか?

大政翼賛会というのも史料を読むと、単なる挙国一致政党とはまた違うことがわかる。

内務省は翼賛会には反対なんです。基本的にあんなものができたら権限がとられるといってカウンターアタックをして、成功しますよね。政党はあそこで解党して翼賛会政治会に入っていくわけですが、実際に昭和十七年に翼賛選挙をやったときに推薦三百八十二人に対して非推薦で通ったのは八十四人です。…(中略)…つまり、政党側からすれば選挙構造は何もかわっていない。要するに選挙区と太いパイプを持っている連中しか当選できなかった。(p81)

結局翼賛会は空洞化し、内務省官選の組織に変わってしまったのだ。

第一次世界大戦後の協調外交は、国際政治上当然の流れであったが、1930年のロンドン軍縮会議が一つの転機となった。日露戦争後、大陸を目指す陸軍とアメリカを仮想敵国とする海軍の間では、予算の取り合いはあったが、直接対立することはなかった。そういった状況の中、ロンドン軍縮会議では、陸軍・海軍・民間を問わず、日本の権利が抑えられたと考えられ、それが対外閉塞感と結びついて協調外交政策に反対し、艦隊派と条約派の意見が分かれる。そうした中で天皇がどういうスタンスでいたのかが、史料を読む際に重要となってくる。天皇は西欧の和平主義に組み込まれたかたちの君主制国家としてやっていくのか、それとも連綿と続く一人の君主として祭祀を守るという役割を重視し、西欧の枠組みとは別の君主制国家として自立していくのか。

そうした流れの中、1935年前後の国体明微運動の中で天皇の神権化ということが出てくる。西欧型市民意識を信奉している天皇は神権化に距離をおいているが、軍部はそれを利用して軍事政策を進めていく。ちょうどそのころから国民の意志に唯一繋がる衆議院も実質的に機能しなくなっていく。昭和天皇は基本的に立憲君主という明治憲法上の立場を守り官僚が進めたことについては口をはさんでいない。天皇は太平洋戦争でも

戦争に否定的で、軍から説得されるて渋々うなずくという方へ行くけれども、実際に始まったら、真剣に対処している。…(中略)…平和主義者でも好戦主義者でもない。連綿とつづいている君主制を守るということが主たる考えであり、そのために戦争という選択もあるとの決断をしたのではなかったと、私(保坂)は考えています。(p199)

一方、天皇の側近はどうか?『木戸日記』によると、1945年9月の段階で木戸幸一は、退位をほのめかす昭和天皇をいさめているが、サンフランシスコ講和条約後の1952年4月には退位を改めて考えたらどうかと天皇にアドバイスしている。木戸にとってはどういう形であれ、機関説天皇でも象徴天皇でも天皇制という国体のみが重要だったのだろう。

ところで。1944年2月に東條英機は首相兼陸相に加えて参謀総長を兼任する。軍令と軍政を分離するという近代日本陸軍の大原則を東條は破ったわけだが、これについて東條がいろいろと策を弄したことが史料を読み込むと浮かび上がってくるという。そもそも日露戦争後の陸軍内部の状況は意外にわかっていないそうだ。例えば満州事件などに代表される謀略のプロセスもわからないところが多いそうだ。

日露戦争~太平洋戦争終結あたりの事情は、どの分野においても史料は読み込めばまだまだ新事実がでてくるのだろう。史料を書いたのは人間であるので、史料を読むというのは「人間」を読むことでもあり、様々な史料を多面的に読む必要があると、本書は教えてくれる。

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2011年5月27日 (金)

『ムッソリーニの毒ガス』

日本は第二次世界大戦終戦まで、731部隊を創設し満州で化学戦や細菌戦の人体実験を行っていた。これは戦後の研究で明るみにでて非難されてはいるのだが、実験データを活用したい戦勝国の意向もあって、真相がはっきりしないところも残り、裁きを免れた責任者もいる。これはナチスドイツのユダヤ人に対する人体実験についても言えることであろう。

一方、イタリアではエチオピア戦争など東アフリカの植民地戦争に毒ガス(正確には毒剤と言うらしい)を使用していたことが、戦後明るみに出て論争となった。第一次大戦以来、欧州列強は毒ガスを使用していたし、イタリアの使用が突出していたというわけではないが、イタリア政府は長年口をつぐんで事実を隠ぺいしてきた。アンジェロ・デル・ボカやジョルジョ・ロシャといった歴史家の研究とそれに次ぐ論争を経て、第一共和政(1992年の汚職摘発までの共和国政権)崩壊後、1996年ディーニ内閣の時に、イタリア政府は毒ガス使用を公に認めることとなる。

ムッソリーニの毒ガス―植民地戦争におけるイタリアの化学戦

著者:アンジェロ デル・ボカ,高橋 武智

ムッソリーニの毒ガス―植民地戦争におけるイタリアの化学戦


エチオピアでの毒ガス使用は人種差別とも関係があるようだ。イタリアは1936年にエチオピアを併合してエチオピア帝国を創設したが、エチオピア人による抵抗運動は断続的に続き、翌1937年ごろはイタリア占領軍による抑圧はピークに達する。ちょうどこの頃から、「人種の擁護」という理論に基づいたエチオピア人差別法が形成されていく。この人種差別の考え方は、ナチスの要請を入れて1938年に制定された、ユダヤ人を対象とした人種法へとつながっていく。ちなみに、原爆がドイツではなく日本に落とされたのも、日本が非白人だったからという説も、いくぶんかは真実を含んでいるのだろう。黒人になら毒ガスを使ってもいい、というロジックと共通するところがある。

毒ガスを含めた化学兵器の使用は、1922年のワシントン条約で禁止されている。この条約には、米、英、仏、日、伊の五カ国が調印した。この後、1925年に採択された条約では化学兵器の使用は禁止されているが、相手国が禁止兵器を先制使用しない場合に限るという、保留条約がつく。これがァシズム政権の毒ガス使用に対する弁解ともなっている。エチオピア軍はダムダム弾を使用し捕虜を虐待するので、やむなく毒ガスを使った、とファシズム政権は主張してもいたという。

エチオピア戦争に従軍していた『タイムズ』の特派員スティーアは言う。

文明開化を遂げたと自称する民族が、野蛮だとされる民族にたいし、世界史上初めて有毒なガスを使用した。この苦悩に満ちた勝利の功績はイタリアの元帥であるバドリオに贈られるべきである

ここで、誰に毒ガスの使用の責任があるのかという問題と、本当に毒ガスを使う必要があったのか、という問題が生じる。後者については結論から言うと、戦略的な重要性はほどんどなかった。ただバドリオは安易に効果が期待できる毒ガスなしでは戦争を遂行できないようにもなっていたという。

では現地司令官バドリオやグラツィアーニが毒ガス使用を許可したのかという、必ずしもそうではないことが資料からわかる。必ずしもというよりも、ムッソリーニの厳命があったことが明らかにされている。しかし、エチオピア戦争を輝ける戦争と振り返る、著名なジャーナリスト、インドロ・モンタネッリなどは、資料をつきつけられても頑なに、ムッソリーニの指示により毒ガスが使われたという事実を認めようとせず、デル・ボカとの論争が繰り広げられることになった。

戦後、ファシズム体制に着せられた罪はムッソリーニ自信のものではなかったという修正主義の見解が多くみられるようになる。ムッソリーニの詳細な研究書を著したレンツォ・デ・フェリーチェなどもその一人であろう。本書の著者であるデル・ボカらによるファシズム政権による植民地政策のとらえ直しは、そうした修正主義との熾烈な戦いでもあった。本書が扱う毒ガスもその主要な論点の一つであった。

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2011年5月26日 (木)

ヴァチカンと日本。金山政英『誰も書かなかったバチカン』

日本とカトリックの総本山ヴァチカンとの関係は意外に古い。支倉常長や天正少年使節はローマ教皇の下を訪れたし、一時期はカトリックに寄進された長崎は殉教者も出した聖地とされている。国家間の関わりで言うと、ヴァチカン市国ができる前であるが、1919年(大正8年)に法王庁使節が来日している。日本はキリスト教国家ではなく、仏教や神社が力を持っていたにも関わらず、正式の行使を派遣しようという意見が何度か持ち上がり、ついに1942年日本の使節派遣が決定した。これは1940年に、対独連合国側の正当性を訴えるためというほぼ純粋な政治的な目的のために、正式使節を派遣したアメリカに対抗するためであった。また、この時期の日本はフィリピンや南印を領有し、カトリック教徒の問題を抱えてもいた。因みにアメリカがヴァチカンに使節を派遣したのはこのときだけである。

さて、1940年に派遣された日本の初代特使はカトリック教徒の金山政英であり、その後11年間ヴァチカンに滞在することになる。金山はその後、外務省欧亜局長にまで昇りつめるのだが、退職後にこの時機を回想したのが『誰もかかなかったバチカン』である。


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本のタイトルどおり、特に前半部は、あまり知られていないことが書かれておりとても面白い内容だった。おそらくこれは、日本語文献はイタリア国内の情勢について情報が乏しく、イタリア語文献は日本についての記述自体が相対的に少ないからでもあろう。そう考えると、大戦中の日伊関係を考える上で、本作は貴重な資料ともいえよう。例えば著者が住んでいたのはバドリオの屋敷の近くでは(ローマの「アフリカ」道街:アフリカ諸国の名前の道が集中している地区)、1940年9月に日独伊三国軍事同盟が締結されたのを記念して、「パナマ通り」が「日本通り(Via del Giappone)に変わったという。

また、ヴァチカン図書館に左遷されていたデ・ガスペリが通訳したり、アメリカの日系市民で編成された442部隊が
カッシーノ戦に参加していたことを伝えたり、1940年7月に『オッセルバトーレ・ロマーノ』紙が日本の大本営発表だけはあまりにも嘘が多かったので掲載しないよう決めたことに対して後のパウロ6世に抗議したり、終戦直前の1945年6月にOSSの意向を酌んだ神父を通して和平工作を画策したり、同じくヴァチカン特使を勤めていたロケット開発者フォン・ブラウンの兄との交流など、エピソードは枚挙にいとまがない。ピオ12世やパオロ6世とも個人的なつきあいがあった日本人外交官がいたということは、もう少し深く掘り下げてみれば、ファシズム期のイタリアにおける日本像、またカトリックから見た日本像などを把握できるかもしれない。そういえば関東大震災前後の日本の新聞を調べてみると、ヴァチカンの話題がけっこう出てくる。余談だがムッソリーニはたいてい英雄として扱われている。後の時代よりもこのころの方が日本におけるイタリア人像はよりイタリアの実情に即していたのかもしれない。

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2011年5月23日 (月)

クラウディオ・ファーヴァ『イタリア南部・傷ついた風土』

今年のセリエAは、トリノを本拠地とするユベントスよりもナポリの方が順位が高かった。しかし何年か前までは、かつてのマラドーナ時代の栄光を失ったサッカーのナポリも南北問題の枠内で語られることがあった。

イタリアの南北問題は根深いものがある。最近では移民問題が深刻化して、イタリア人VS移民の構図も成り立つが、1990年代くらいまでは、イタリア国内の移民と言えば北部に出稼ぎにいく南部の人たちのことで、両者の間の差別も強かった。戦後、土地改革と南部開発政策、IRI傘下のイタルシーデル(鉄鋼。一時期日本人がここのトップに迎え入れられたこともある)などにより、公共事業とそれに群がる利権が生じ、マフィアやカモッラ、ンドランゲタの温床にもなっていた。ちなみに北部同盟の登場と人気はこの、「北の冨を南がかっさらう」という風評に由来する。そして北部同盟が、左翼的な政策も多く取り入れながらも、極右に位置づけられるのは、まさにこの「反南部」という考えによる。

カターニャ市長選にも立候補したことのある、ジャーナリストのファーヴァは、ターラント、バーリ、サレルノ、レッジョ・カラブリア、パレルモ、そしてカターニャを巡り、それぞれの街について考える。70年代以降、イタリア経済が傾きだしてから、一体街に何が起こったのか?

イタリア南部・傷ついた風土

著者:クラウディオ ファーヴァ

イタリア南部・傷ついた風土

ターラントには、バーリのアルド・モーロ、レッジョのマンチーニ、サレルノのコンテ、シチリアのアンドレオッティ、などに当たる政治家はいない。そこでジャンカルロ・チートという、元MSI(北部サロ共和国の流れを組むイタリア社会運動)の活動家が市長になった。チートの反対派はインタビューで述べている。

(ターラントでは)テレビカメラの前で政治集会をおこない、テレビを政党に変えてしまった男がいるのです。お気をつけください。誰かがそれに気づいたら、もしベルルスコーニが同じ実験をやってみようと決心したら…
まさにそうなった。

バーリは援助付けで援助相互主義が過ぎたという。南部開発公庫が廃止されたと思ったらすぐに臨時助成のための特別法が現れたという。現プーリア州知事ニキ・ヴェンドラもインタビューに答えている。バーリは実はハイテク産業があるが、皆が日和見主義に陥っていたという。サレルノはかつて栄えたが今は何もない、見放された不幸な街だという。ノーラやエボリによく行っていたときは、サレルノは大都会に見えたが、実際は確かに何もない街なのかもしれない。大臣コンテがいなくなってから何もなくなったという。対してレッジョは不法建築とセメントで固められた街だという。マフィアを憎みつつ受け入れる。表向きはマフィアに反対しつつマフィアなしではやっていけないパレルモ。フールボ(狡賢い人)が溢れているカターニャ。

イタリア南部はジョルジョ・ボッカが言うように『地獄』であり続けるのか。ピーノ・アプリーレが言うように『terroni』であり続けるのか。それとも移民の増加で、南部も北部もなくなるのだろうか?

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八木宏美『違和感のイタリア』を読んで

「人文学的観察記」と副題にあるように、著者がミラノ大学で学んだ「イタリア式人文学的」手法によって、イタリアの世相というか現代史を描いている。一般的に日本語ででまわっている歴史書やイタリア関係の本に比べて、とても読みやすく、内容も深くて面白い。参考文献がほぼすべてイタリア語文献だということとも関係があるかもしれない。実際、イタリア現代史に関しても、イタリア語文献と日本語文献では内容に雲泥の差がある。当たり前と言えば当たり前だが、イタリア研究はイタリア語文献を引用する、という大前提(?)を本書は実行しているのだろう。

違和感のイタリア―人文学的観察記

著者:八木 宏美

違和感のイタリア―人文学的観察記

内容はというと、イタリアの教育制度から始まって、イタリア教育における人文学の位置、地域コミュニティの要と位置付けられるカトリック教、イタリアのブルジョワとアニェッリ家、フィアット、ファシズムとレジスタンス、マフィアと、イタリア現代史の重要なファクターを扱っている。それも外国から見た表層的な見解ではなく、イタリア国内における言説から解き明かしている。また本文の流れから外れたコラムでも様々なことを紹介している。例えばこれはあまり指摘されないことだが、オンラインでの納税手続きを法的に義務付けたことにより、実はイタリアでは役所におけるインターネット利用が進んでいるそうだ。

中でも特に興味深かったのは、フィアットの歴史についてのくだりだ。ジョバンニ・アネェッリ、ヴァッレッタ、ジャンニ・アネェッリという、三代にわたる社長の個性からフィアットの発展を説き起こしている。実際、フィアット抜きにはイタリア現代史を語れないだろう。イタリア共産党も、ファシズム政権が政策の要としたドーポラボーロも、1969年の「熱い秋」も、すべてフィアットが関係している。それは、資本主義と労働運動という、20世紀を動かした思想を体現するのがまさにフィアットだからでもあろう。特に1919~20年の「赤い2年間」とグラムシやトリアッティも関わった工場占拠時のアネェッリの行動は重要であろう。彼がばくちを打って、工場運営委員会に工場を明け渡したため、工場を占拠した労働者は逆説的に何もできなくなってしまったのだ。このときのアネェッリとグラムシに焦点をあてて工場占拠前後の状況を研究してみるのも面白いと思った(ただし、工場占拠の失敗はこのように単純化した因果関係によるものではなく、グラムシが後年「南部問題」で分析しているように、労働者側の未熟さ等、さまざまな要因があったようだ)。

また、本書ではジョバンニの孫ジャンニがビルダーバーグ会議のメンバーだったことが触れられ、ここでデ・ガスペリやロックフェラー、フォード、キッシンジャーと親交を深めたという。たしかにそうだし、秘密結社が多いイタリアの現代史を、ジャンニ・アネッリを切り口に調べてみるのもいいと思った。

などなど、とても面白い本だった。

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2010年11月21日 (日)

岩崎博充『ライブドアショックの真実』

ライブドアの成長スキームは、かんたんにいえば「自社の株価を上げて時価総額を増やし、増加した資金を未上場の企業に投資していく」というスタイル。いくつもの投資事業組合を通して出資することで、外からはわからないようにする。その手法と、会計監査法人との関係などは、米エンロン事件の手口と酷使しているという。エンロンではSFC(特別目的会社)を通して複雑な取引を繰り返し、有価証券報告書には記載されない取引で利益の水増しを図っていた。

またライブドアショックの実態とは、ライブドアの証券取引法違反による強制捜査の翌日(2006年1月17日)、マネックス証券がライブドア関連五銘柄の信用取引の担保掛目を0%に引き下げたため株価が暴落し、それを受けて東京証券取引所の売買システムが限界に達して停止したことによるという。つまりライブドアショックがこれほど大きな問題となった原因は、結局のところ旧態依然とした東証のシステムそのものの脆弱性だったという。

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T.W.アドルノ『ヴァルター・ベンヤミン』

アドルノによるベンヤミンの回想+ベンヤミンへの手紙。とても読みにくく、さっと目を通した後、内容をほとんど覚えていない。原文自体が読みにくいのか、訳が悪いのか、というよりも単に内容が理解できなかっただけなのか…

ベンヤミンの『パサージュ論』は面白かったがベンヤミンもアドルノも体系的に読んだことがないので、ベンヤミンをちゃんと読んでから、もしくは解説書でも読んでから、もう一度読んでみようと思う。

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