« 2013年1月 | トップページ | 2013年6月 »

2013年5月

2013年5月26日 (日)

アンドレオッティ元首相

2013年5月6日、元イタリア首相で終身上院議員のジュリオ・アンドレオッティがローマの自宅で死去した。94歳だった。

アンドレオッティの訃報に際して、前首相のベルルスコーニは「晩年のアンドレオッティは左翼系司法関係者の攻撃にさらされていた」とコメントした。ベルルスコーニとアンドレオッティを比べると、政治家としての特徴や性格、政治的傾向はまったく異なるが、ともに権力を握り何度も首相になりながら司法当局から起訴されたという共通点を持つ。脱税と未成年売春で有罪判決を受けたベルルスコーニは、ことあるごとに裁判官を「左翼に支配されている」と攻撃するが、アンドレオッティについても「左翼に迫害されていた」とコメントしている。「左翼はアンドレオッティの人格を攻撃してきた。しかも、自分たちの敵を悪魔と見なし、司法制度を使って迫害するという、文明国家にはあるまじきやり方での攻撃だった。私は、彼らのやり方をよく知っている。憎悪と妬みにかられた左翼は、選挙では勝てない相手に対しても同様に攻撃し続けているのだ」

一方、ナポリターノ大統領は、かつてベルリングエル書記長時代(1970年代後半にユーロコミュニズムを標榜しキリスト教民主党との「歴史的妥協」を押し進め、共産党の最盛期を演出した)の共産党執行部幹部として、当時のキリスト教民主党の首相であったアンドレオッティとやりあっていた。特に1976年、共産党を含めた挙国一致内閣を作り上げる過程では、お互い思想的にはまったく相容れない両党の代表として交渉を重ねてきた。そのナポレターノ大統領は、アンドレオッティの死に対して「歴史の判断のみがアンドレオッティの正確な評価を定めることができる」と簡潔に述べるにとどめた。

アンドレオッティはとかく毀誉褒貶の激しい政治家であり、第二次世界大戦後のイタリアを象徴する人物でもあった。1946年、27歳の時にキリスト教民主党から憲法制定議会(1946年6月から1948年1月までイタリア共和国憲法を制定するために選出された暫定議会。1946年6月、王制か共和制かを選択する国民投票と同時に選挙が行われた)に立候補して以来、67年にわたって国会議員を努めた。その間、首相には7回、外務大臣や防衛大臣を始めとする国務大臣には21回選出されている。

アンドレオッティを政治の世界に導いたのは、ファシズム時代に政権から弾圧されヴァチカン図書館に匿われていたデ・ガスペリと、カトリック大学連盟(FUCI)を担当していたモンティーニ枢機卿であったと言われている。

デ・ガスペリは、戦後40年以上に亘って与党としてイタリアの政権を担うことになるキリスト教民主党(DC)の創設者の一人で、1945年から53年までの8年間は、首相を務めた。第二次大戦後の混乱期に、左翼政党が強いイタリアが西側陣営の一員としてとどまり経済発展できたのは、デ・ガスペリのリーダーシップに負うところが大きかった。アンドレオッティの才能に目をかけたデ・ガスペリは(「アンドレオッティはすべてを可能にする」と評価していた)、当時20代のアンドレオッティを官房副長官に抜擢する。デ・ガスペリは、西側陣営に属し共産党を押さえ込むことこそが、壊滅状態に陥っていた戦後のイタリアが生き残ることのできる唯一の道だと信じていたが、その考えはアンドレオッティにも受け継がれている。

一方、デ・ガスペリにアンドレオッティを起用するよう推薦したのはモンティーニ枢機卿で、彼は後に(1963年)教皇パウロ6世となる。パウロ6世は第2ヴァチカン公会議を成功に導くなど評価が高い教皇であったが、一方で、特に晩年は、なにかと黒い噂がつきまとっていた。1970年代から80年代にかけて教会関係の金融機関が相次いで破綻し、ヴァチカンばかりかイタリア財政会を揺るがすスキャンダルへと発展するのだが、その破綻事件を引き起こしたミケーレ・シンドーナやロベルト・カルヴィを重宝したのが、パウロ6世であった。(彼らと密接に関わっていたポール・マルチンクス大司教をヴァチカン銀行総裁に推薦したのもパウロ6世である)

教会の金をつぎ込んだ挙げ句に銀行破綻事件を起こしたシンドーナは、サルバトーレ・リイナをはじめとするマフィアのマネーロンダリングを行っており、そのシンドーナを助けていたのが、ヴァチカン銀行の主要取引先アンブロジアーノ銀行頭取のロベルト・カルヴィであった。彼らはまた、反共の旗印のもとイタリア内外で陰謀事件を引き起こしたフリーメーソン・ロッジP2の頭領リーチョ・ジェッロとも懇意であった。(1981年に「P2事件」と呼ばれる、イタリア政界全体を巻き込んだスキャンダルを引き起こすことになる)

歴代の教皇と個人的な関係を築いてきたアンドレオッティは、教会の資産を管理していたシンドーナやカルヴィ、ジェッロらとも親交を持つようになる。そして彼らとの密接な関係によって(アンドレオッティはシンドーナを「リラの救済者」と称えた)、70年代から90年代にかけてイタリアで相次いで起こった陰謀事件にアンドレオッティは深く関わっていると疑われることになる。1982年6月17日、アンブロジアーノ銀行を破綻させた元頭取のロベルト・カルヴがロンドンで首を吊って死亡しているのが発見された。その4年後、次々と銀行を倒産させて米国で逮捕され、逃亡した後にイタリア国内で再び捕まったシンドーナが、獄中で服毒死する。彼らの死はマフィアが直接関係しており、その背後にアンドレオッティがいたのではないかと疑われているのだ。

マフィアとの関係のため、アンドレオッティは実際に起訴されている。1982年に国防省警察の反マフィア特別チームを率いていたダッラ・キエーザ将軍がシチリアで暗殺され、10年後の1992年には反マフィア特別判事のファルコーネ判事が、同じくシチリアで暗殺される。これらの事件についてアンドレオッティが絡んでいたとして、一時は有罪判決も受けている(最終的な判決は無罪)。さらに、1999年には、検察は別件のマフィア幇助罪でアンドレオッティに終身刑を求刑する。これは1979年、政治ゴシップ雑誌『OP』の編集長ミーノ・ペコレッリが暗殺された事件に関するもので、ペコレッリは、アンドレオッティとマフィアとの関係を特集した最新号を刊行する直前に殺害されていた。この事件も最終的には2003年に破毀院(最高裁)が無罪を言い渡すのだが、その裏で何らかの取り引きがあったと噂されることになる。

アンドレオッティの黒い噂はマフィアとの関係だけにとどまらない。1979年にアルド・モーロ元首相(友人でもあり、キリスト教民主党内の対立する派閥の領袖であった)が極左テロリスト集団「赤い旅団」に誘拐された際には、モーロが監禁先からの手紙で助けを求めたにもかかわらず、アンドレオッティはテロリストとの取り引きを拒否して、モーロを見殺しにしたと言われている。また、1970年に元サロ共和国(ムッソリー二がナチスに救出された後に北イタリアに作った傀儡政権)海軍将校ボルゲーゼが起こしたクーデター未遂事件も、CIAとともにアンドレオッティが関与していたとされている。このように相次いで起こった不可解な事件に、常に自分の名前が取りざたされることについて、アンドレオッティは皮肉を込めてインタビューに答えたことがある。「まだ若すぎた頃に起こったポエニ戦争を除いて、イタリアで起きたあらゆる事件の責任は私にあるようだ」

アンドレオッティはこのようなアフォリズムを多用し、皮肉とユーモアに満ちた受け答えをする政治家であった。パオロ・ソレンティーノ監督による映画『イル・ディーヴォー魔王と呼ばれた男』(2008年)では、そうしたアフォリズムを引用しながらアンドレオッティの人物像を淡々と語っている。ここで描かれているアンドレオッティは、権力を持った「魔王」と言うよりは、むしろ控えめで、敬虔なキリスト教徒ながら徹底したリアリズムを貫く政治家である。教会に行ってデ・ガスペリは神と話すが、アンドレオッティは司祭と話す、と言われたことに対して、「司祭は投票するが、神は投票しない」と返すアンドレオッティは、モノローグで述べている。「神の御心を理解しなければならないのと同様に、善のためには悪が必要だと理解しなければならない」。また、アンドレオッティの秘書は、「アンドレオッティはこの世には見る必要のないものがあるということを理解していた」と言う。「真実は正しいことだと皆が信じている。しかし実際には、真実とは世界の終わりだ。正しいという名目で世界の終わりを認めることなどできないはずだ」これはアンドレオッティ自身のモノローグである。

実際にアンドレオッティがマフィアと関係を持ち、暗殺を指示していたかどうかはわからないし、敬虔深く控えめな政治家であったアンドレオッティが、モーロが言うように「悪事を働くために生まれて来た政治家」であったのか、それともイタリアを救うために敢えて闇の部分に目をつぶっていたのか、ということについては評価が分かれている。いずれにせよ、アンドレオッティの死によって第二次大戦後のイタリア史におけるかなりの部分が、文字通り闇に葬りさられたのは確かであろう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2013年1月 | トップページ | 2013年6月 »