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2013年1月

2013年1月 6日 (日)

モンティ政権の改革

モンティ政権は実際に何を成し遂げたのであろうか。

モンティは、2011年11月9日にナポリターノ大統領から終身上院議員に指名され、5日後の11月14日に組閣、12月4日には総額300億ユーロ(約3兆円規模)におよぶ緊縮財政案を発表した。この財政案は12月6日に法律命令第201号「成長、公正及び財政再建のための緊急措置」として発令され、12月22日には国会の承認を受けた。

その主な内容は以下のとおりである:
・年金受給年齢の引き上げ
・年金のインフレ調整の凍結
・付加価値税率の引き上げ
・不動産税(固定資産税)の導入
・金融商品・贅沢品への課税
・州議会議員の削減
・公務員数の削減
・脱税対策(1,000ユーロを超すキャッシュ取り引きの禁止など)
・規制緩和と独占権の廃止

労働組合は当初この財政案に反対していたが、最終的には「経済危機の状況においてはやむを得ない」とみなして容認する。薄氷の思い出通した財政案について、モンティ首相は外国報道機関との会見で「この緊縮財政対策が承認されていなければ、イタリアはギリシャのように財政破綻に陥っていたかもしれない」と心情を吐露している。

さらにモンティ政権は労働市場の改革を目指し、2012年6月27日に、失業手当を拡充する代わりに企業が業績悪化時に従業員を解雇できるようにする法案を成立させた。この改革案には若年層の就労支援策(インターンシップを名目とした正規の契約を結ばない短期就労の制限など)や女性差別的な労働慣行(女性採用時にあらかじめ辞表を提出させ、産休が長期化した際などに、この辞表を根拠に事実上解雇するなど)の是正も盛り込まれていたが、労働組合は反発。すでに施行されている緊縮財政策の不人気も手伝って(政権発足当初は70%を超えていた支持率が、一時は30%を割っていた)、各地でデモも頻発する。この結果、当初は償金の支払いで解決することができるとされていた「経済的な理由(業績悪化など)による正社員の解雇」に、裁判所の判断による復職規定が加えられた。

モンティ政権の狙いは、イタリアの労働法で保護されていた雇用の調整を流動化させることで、外国企業を呼び込むとともに国内産業を活性化し、税収増につなげることであった。翌28日開かれたEU首脳会議でモンティはこの労働市場改革法案を発表し、EU各国のイタリア経済に対する不安を和らげることに成功する。その結果、国際社会におけるイタリアの信頼はある程度回復し、イタリア国債のスプレッド(ドイツ国債との利回りの差)も落ち着く。

しかし県の数を縮小整理する案は否決される。また、実質的な与党である自由国民(PDL)はモンティ政権の緊縮財政路線に反発を強めるようになり、10 月27日にはPDLリーダー、ベルルスコーニがモンティの財政政策を批判。PDL幹事長アルファーノはモンティ支持を表明するが、12月7日にはモンティ批判に転じて、「モンティの役割は終わった」と議会で発言する。この発言によって、これ以上の政権運営は困難と見なしたモンティは辞意を表明することになる。

もっともモンティが辞意を表明したのは、10月16日の法案提出より審議されていた財政健全化法案が、ようやく成立する見通しが立ったからでもある。とはいえ66日間におよぶ審議の結果、当初の提出案から大幅な修正がなされることとなる。

概要は以下の通りである:
・政府案で提出された個人所得税減税は削除され、代わりに子の扶養控除が増額。
・歳出額は上院での審議で倍増(150億ユーロから324億ユーロへ)。歳出項目も10〜20ほど追加
・出版・テレビ間の持株の禁止は2013年6月30日まで延期。
・政府案より、所得保証金庫と生産賃金補助金が増額。
・政府案より、失業者手当が増額。
・年金の有効性チェック規定が改定。
・全国保険基金を6億ユーロ削減。
・市への交付金を削減する代わりに固定資産税などの権限を市へ移譲。もっとも、モンティ政府が行おうとした県制度を市制度に合併する改革は凍結状態のまま。

週刊誌『レスプレッソ』はモンティ改革について、以下のように評している。

モンティ改革によってイタリア国民は、固定資産税(IMU)を払い(2,400億ユーロ、GDPの1.5%)、財政収支の印紙税を払い、付加価値税を多く払うようになった。また、年金の受給開始年齢は上がった上、支給額は減少。消費は15年前のレベルに戻り、失業者が急増。イタリア人の負担はかなりのものだったが、この犠牲にいつまで耐えればいいのかわからない。…議員数削減は棚上げで、県制度の廃止は骨抜きにされてほとんど意味がなくなった。

結局、モンティ政権下の1年間で、イタリア国債のスプレッド(ドイツ国債との利回りの差)と赤字削減はある程度回復したが、労働市場は改善せず成長も未だ見られないようだ。議会経費削減と県制度改革は議会の反対で中途半端に終わり、財政再建法案についても議会によって大幅に修正された。このままでは改革の評価も中途半端で改革の流れも変わってしまうと危惧して、モンティは続投に意欲を示すようになったのかもしれない。

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2013年1月 4日 (金)

イタリアの株価回復と次期選挙におけるモンティ首相

ロイターも伝えているように、米上下院で「財政の崖」回避法案が成立したことを受けて、イタリアの主要企業40社で構成されるFTSE MIB指数が3.8%上昇し(ユーロ圏で最大の上昇幅)、イタリア10年債とドイツ10年債との利回りの差であるスプレッドは283ベーシスポイントまで下がった。モンティ首相が就任時(2011年11月9日)に掲げた「スプレット(当時574ベーシスポイント)の半減」という目標が、ようやく達成されることになった。これで自信を持ったのか、モンティはテレビ番組で2月に行われる予定の選挙で対立候補となりうる自由国民代表ベルルスコーニと民主党代表ベルサーニからの批判に対して反論した。

モンティ首相は、次期選挙で中道勢力のまとめ役になる。しかしモンティ自身は、2011年11月に終身上院議員に任命されているため選挙を戦う必要がない。これはベルルスコーニに代わって政権を担当するためになされた措置であり、イタリアでは前例がないことではない。1993年4月のチャンピ首相、1996年5月のディーニ首相と、過去に2回のテクノクラート政権が誕生している。だが次回の選挙で誕生するのはテクノクラート政権ではなく、総選挙で勝利した政党(連合)の代表が首相となるため、選挙の洗礼を受けずに首相候補になる可能性のあるモンティに対して、モラル面からの批判もあった。

そもそも、モンティ自身もそれは感じていたため、自由国民(政権与党の一つ。モンティに首相を譲ったベルルスコーニが代表を努める)幹事長アルファーニの一言で2012年12月に辞任を決意した直後は、次期政権への不参加を表明していた。それが一転して出馬を表明することになったのは、左右どちらの陣営が勝っても、この1年間に行って来た政策がすべて否定される恐れがでてきたからだ。

中道右派では、モンティ政権が行った増税・緊縮財政政策を激しく批判する自由国民代表のベルルスコーニが復帰の意を示し(2011年11月の首相辞任後、引退を表明していた)、EUそのものを否定する北部同盟と選挙協力で合意した。

他方、中道左派では2012年12月に代表選が行われ民主党のベルサーニが決選投票を制して中道左派の代表になったが、決選投票を制するために労働組合(モンティ改革の「抵抗勢力」となっている)や、ヴェンドラ(左翼エロロジー自由党首。緊縮財政・ヨーッロパ主義を強烈に批判している)の力を借りなければならず、穏健派のベルサーニが政権をとっても、この両勢力の意向を無視する事ができなくなってきた。

モンティはEUの競争政策担当委員も努めた(競争政策担当委員としのモンティに関してはトム・リード『「ヨーロッパ合衆国」の正体』に詳しい)徹底したヨーロッパ自由市場主義であり、どちらの陣営が政権をとっても、自らが成し遂げた改革が振り出しに戻ると危惧したのだろう。

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