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2012年8月12日 (日)

イタリア統一 1848-61年

1848-49年にイタリア中で勃発した革命が失敗に終わった後、正統的な君主が復帰して「第二次王政復古期」が始まる。この時期のイタリア半島ではオーストリア帝国の覇権が確立し、国家内での改革の試みが阻止されて経済発展が抑えられた。そして君主と(中産階級の)世論との間の断絶は深まり、特に両シチリア王国及び教皇領(教皇国家)で顕著であったが、全イタリアで抑圧専横的政策が取られるようになった。

その中でピエモンテ王国の状況だけは違った。憲法制度が保たれていたことに加え、オーストリアとの平和条約(1849年8月のミラノ平和条約。オーストリアへの賠償金支払いを規定)承認に関する国家内の危機を乗り越えたダゼーリオ政権が国家の近代化に着手したのだ。特に教会との関係においては、1850年2月にはシッカルディ法が承認されカトリック教会の特権が廃止された。また同じく1850年にカヴールが農相大臣として初の政権入りを果たした。その2年後に首相となるカヴールは、自由競争の長所への信頼と新しい実践的自由主義の考えに刺激をうけ、広い文化的視野と経済問題についての深い知識を持った政治家であった。政府の軸を左側に移した(ラッタッツィと「同盟」を結んだ)カヴールは、何よりもまず自由貿易の導入による経済の近代化に着手し、国家による産業保護、信用制度の再編成、公共事業などの政策を行う。憲法に基づく自由の維持と経済発展、イタリアの他の国家からの亡命者の受け入れなどによって、カヴールが率いるピエモンテ王国はイタリア半島中の自由主義者の拠り所となった。

1848-49年の敗北の後も、蜂起による独立と統一への到達を目指すマッツィーニの不屈の活動は続いた。しかし彼の戦略に起因する失敗が相次ぎ、民主派の中でも次第にマッツィーニに対する批判が高まってきた。中でもピスカーネは「社会主義的」な考えによる国家解放を主張し、彼の一派はイタリア南部の圧迫された大衆に訴える。だがピスカーネが指揮したサプリ遠征(1857年)は、南部の大衆の反感によって悲劇的な結果に終わった。一方この失敗により、サヴォイア王家(ピエモンテ王国)との同盟が国家統一を成功させる唯一の道だと考えるグループが、民主派の中で力を強めることになる。(1857年にはマニンの提案により「国家連合」が創設された)

クリミア戦争及びパリ国際会議(1855-56年)へのピエモンテ王国の参加によって外交的成功を収めたカヴールは、イタリア半島からオーストリアを駆逐するためにはナポレオン3世の支持が欠かせないと確信していた。オルシーニによるナポレオン3世暗殺未遂事件の結果、(イタリアの愛国主義を重く見たナポレオン3世の意向によって)対オーストリア戦争を視野に入れたフランス・ピエモンテ間の軍事同盟が1858年にプロンビエールで締結された。この同盟のおかげで翌年4月の対オーストリア戦争はフランス・ピエモンテ同盟に有利に運んだが、ナポレオン3世が突然単独でオーストリアとビッラフランカの休戦条約を結んだため、ピエモンテ王国はロンバルディア地方のみしか獲得できずに終戦を迎える。エミリア、ロマーニャ、トスカーナ地方獲得のためには、イタリア北中部で反オーストリア暴動を起こすなど、新たな状況を作り出さねばならなくなった。

一方、休戦条約に不満を感じた民主派の人々は、(ピエモンテ王国から半ば独立して)イタリア南部への派兵によって闘争を続けようと考え始める。1860年5月にはガリバルディが千人の志願兵を指揮してシチリアに上陸し、ブルボン王朝軍を破って臨時政府を樹立した。初めはシチリア中で「解放者」を歓迎したが、何よりも土地所有関係の変化を望む農民の熱望により、そうした融和の時代はすぐに終わりを告げた。そして農民の暴動を恐れた土地所有者は、シチリアがピエモンテ王国に編入されるのを望むようになる。

ガリバルディはその後、カラーブリア地方に上陸しブルボン朝の首都ナポリを陥落させる。この状況でピエモンテ政府は、ガリバルディの遠征が国際問題に発展するのを避けるため、またサヴォイア王家がイタリア半島の状況を確実にコントロールできるようにするために、動かざるを得なくなる。軍を介入させ、ガリバルディ軍と南部国家をピエモンテに編入するすることで、南部の解放はカヴールの政策に従うこととなる。そして1861年3月17日に、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア王を宣言する。


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