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2012年8月 5日 (日)

イタリアのリソルジメント(復興統一運動) 1820-47年

コムーネの時代から知識人の思想の中には、イタリア国家というものが存在していたわけではないが、イタリア国民という概念はあった。この概念が再び浮かび上がってくるのは、ナポレオンによる占領時代である。イタリアのジャコバン主義者(過激政治家)の間に、統一と独立を目指す政治的傾向が広まったのだ。この傾向は反動の時代(1815年ウィーン会議から1830年フランス7月革命の頃まで)には影を潜め、1820-21年のカルボナリ反乱の際にはほとんど見られなかったが、1831年の騒乱の時に再び姿を現すようになった。

1831年に、モデナ公国、パルマ公国、及び教皇国家レガツィオーネで相次いで起こった騒乱は、フランスの7月革命の影響を受けたものであったが、それだけではなく、モデナ公フランチェスコIV世を巻き込もうとした陰謀に端を発したものでもあった。モデナ公自身も、始めは陰謀に肩入れしていたのだが、結局は反動的な性向を明らかにして、陰謀のリーダーたちを捕えてしまう。それでも教皇国家レガツィオーネで騒乱が起こり、それが両公国へと広まった。1831年の騒乱の特徴は、自由主義派貴族や動員された大衆(少数ではあったが)の支持を得た、中産階級(ブルジョワ)が主役になったことであろう。しかし、この騒乱は一つにまとまらずに都市毎に分断していたうえ、穏健派と民主派が対立していたため、オーストリアの介入を招いて簡単に鎮圧された。

1831年の騒乱を鎮圧されて壊滅的な打撃を受けたカルボナリ党は、ジュゼッペ・マッツィーニが主張する方向へと転換を図る。マッツィーニの思想では、民主主義への渇望は半ば神秘的宗教的な様相を帯び、イタリアへの帰属という使命感を持つひとつの概念となっていた。社会的問題を無視したわけではないが、マッツィーニの思想の中心には、独立、統一、共和制という国民的目標と、それを達成する唯一の方法は民衆蜂起であるという信念があった。1831年にイタリア青年党を創立したマッツィーニは、民衆蜂起の計画に邁進し、1834年にはサヴォイア侵攻を企てることになる。しかしこの侵攻は失敗、さらに同様な計画の相次ぐ失敗もあって、マッツィーニの国民問題についての考えに批判が高まる。それとともに、新しい政治的傾向も広まることになる。

1830-40年代のイタリアは、ヨーロッパの他の国とは異なり、実質的に王政復古がそのまま続いた10年間であった。教皇国家や両シチリア王国は改革への反動で特徴付けられる一方、トスカーナ公国は改革に対していくらか寛大であり、ピエモンテ王国では、カルロ・アルベルト国王が教権的・正統王制的な傾向を持っていたにもかかわらず、いくつかの重要な改革が実現した。また、この時期のイタリアの経済的発展はとても緩やかで、いくらかの進歩が見られたとはいえ、ヨーロッパの先進国との間に積み重ねられてきた格差は縮まらなかった。

1840年代には、国民(民族)問題を穏健的に解決しようという政治的傾向(穏健派)が出現した。ジョベルティに代表される穏健派は、カトリック教会の国家的役割の再発見(ネオグエルフィズモ)に立脚していた。穏健派は、マッツィーニ派とは異なり、蜂起に訴えずに段階的な問題解決を目指していたために支持を広げるのに成功した。穏健派に見られる斬新主義と連邦主義は、カッターネオに代表される、ロンバルディアの民主・共和派にも見られる考えであった。

1846年の教皇選出選挙でピウス9世が選出されたことで、イタリア中が狂喜の波につつまれた。その熱狂は、ピウス9世が教皇就任直後に、限定的とはいえいくつかの改革(政治犯の釈放など)を行ったことで高まることになる。新教皇ピウス9世によって、穏健派ネオグエルフィズモが描く政治(オーストリア帝国がフェッラーラを占領したことで、世論の間でもネオグエルフォズモへの期待が高まっていた)が実現されると期待されていた。そして1847年には、両シチリア王国は別として、世論と民衆のデモに突き上げられた教皇国家以外の国家も、限定的とはいえいくらかの改革を行わざるを得なくなる。

サッバトゥッチ(G. Sabbatucci)、ヴィドット(V. Vidotto)共著『イタリア現代史 19世紀』、ラテルツァ社、2010年

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