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2012年4月

2012年4月21日 (土)

李命英『金日成は四人いた』

伝説の英雄「キム・イルソン」は北朝鮮の領袖の金日成か?

この本の著者・李命英は、幼い頃に聞いた英雄の名前と1945年に平壌に姿を現した金日成は同一人物ではあり得ないと疑問に思い、金日成の正体を明らかにしようとした。

「キム・イルソン」伝説の矛盾は、1907年の義兵闘争、1919年三・一独立運動、そして1937年6月4日の普天堡襲撃のどれにも、「キム・イルソン」将軍が関わっていることである。

1945年に登場した30代の青年将軍が、1907年に指揮をとっていたことはあり得ない。1907年の義兵闘争とは、韓国統監府による韓国皇帝強制譲位と韓国軍解散に反対した軍人たちが起こした抗日義軍である。日本側の記録に「キム・イルソン」の名はないが、白頭山を拠点に活動する少数の「キム・イルソン将軍」率いる部隊の記憶は残っているという。

1907年、18、9歳で義兵として立ち上がった金昌希は、金一成(金日成①)と名乗って五峰山に拠り抗日遊撃戦を繰り広げる。その後、地方の有力者を捉えたため警察から追われて白頭山に拠点を移し、三・一独立運動では独立武装闘争を強化。1922年に一度日本の警察に捕まるが脱出し、伝説となる。おそらく1931年満洲事変に際して反日部隊の中に名前が無いのを見ると、おそらく1920年代後半には亡くなったのであろう。

また、それとは別に、日本陸士卒の「キム・イルソン」将軍という伝説もあったという。これは、1911年に陸軍士官学校を卒業した金光端(金日成②)であろう。金光端は、私費で日本に留学し日本軍将校となるが、三・一独立運動の折に傷病休職を願い出て帰国。1919年6月に満洲にわたり、独立軍兵士養成所で軍事教育を始める。その後、武器調達のためソ連に入り、独自の抗日闘争を始める。赤軍と協力はするが、共産主義者ではなく、1923年の朝鮮国内の新聞東亜日報による独占インタビューでは、白馬にまたがって指揮をした、と書かれている(白馬に乗った将軍というのも、金日成伝説の一つである)。日本側資料に関しても、鎌田沢一郎『朝鮮新話』に、シベリア出兵の際に「金日成」が正面の敵だったという記述がある。日本軍のシベリア撤退とともに、ソ連政府は日本の再介入を恐れて抗日部隊の武装解除を強制。金光端は露満国境で屯田制実施し将来に備えて軍事訓練を実施していたが、1925年の日ソ基本条約を期に共産主義者たちとは決別し、満洲で地下運動を続けていたようだ。

さらに、1937年の普天堡襲撃の金日成は、彼ら二人とはまったくのない金成柱(金日成③)という人物である。1934年にソ連か関係ら満州に派遣された東北人民革命軍第二軍第二師に参加した金成桂は、抗日パルチザン時代の金日成の最大の功績としてよく引き合いにだされる普天堡襲撃(レーニンの宣伝画とほぼ同じ構図の宣伝画もかなりの程度流布されていた)を指揮して、一躍有名になる。その後、金成柱が死亡すると、彼の部下である金一星(金日成④)が「キム・イルソン」の名を継ぐ。この第二方面軍では、「キム・イルソン」という名前が大事だったのであり、通常の作戦においても、撹乱のため各小隊の隊長がそれぞれ「キム・イルソン」を名乗っていたという。そして、その中の一人に後の北朝鮮の領袖・金日成もいた。

北朝鮮の領袖・金日成の本名は金聖柱で、1912年生まれ。若いころから共産系馬賊に属していたごろつきであったが、満洲事変後に張学良が共産主義者への抑圧を強めると朝鮮革命軍に逃げ込み、そこで信用されていないと気付くとすぐに革命軍を飛び出す。これは1932年のことであり、それから1945年10月に「金日成将軍」として平壌に姿を現すまでの記録はない。とはいえ、1940年12月に野副討伐軍に追われた抗日連軍の敗残兵がソ連領に逃亡したのだが、その中の一隊が第二方面軍長金成柱(金日成③)に率いられた部隊で、金日成もそのうちの一人だったと推測できる。それから5年間、ソ連でスパイの訓練を受けていたためロシア語は堪能であったそうだが、偽の経歴を作り上げるためにソ連には一度も行ったことがないと公式に表明し、実際は必要ないにもかかわらず、ソ連の軍人に会う時も通訳をつけていたという。ちなみに息子のユーラ(後の金正日)はソ連で生まれた。

金日成の経歴は、井崗山、瑞金、長征、延安と革命拠点作りと対日闘争を展開してきた毛沢東の経歴を手本にしているというが、毛沢東の経歴も作られたものである。また、農民からの搾取や敵対する人を虐殺するなど金日成の本性は悪辣非道だというが、毛沢東の残忍さには比ぶべくもないであろう。

ともかく1945年の段階で、スターリンとベリヤが牛耳るソ連の政策は、「すべての占領地域に共産政権をうち立てて、その政権を徹底的に傀儡かすること…占領地域に自分たちが認めることのできる共産党がすでに存在する場合を除いて、ソ連の忠実な下僕となるように仕込んだ人間たちの中から適任者を選び出し、その地域の責任者に据え」るというものであった。そしてそうした責任者はある程度、その国において何らかの社会的業績や名声のある人物である、といった条件が必要であった。そうした状況で、スターリンと共通する権力志向と粛正を好む性向を持った金日成が選ばれたのであろう。

馬賊あがりのゴロツキであった金日成には国家統治能力はなく、北朝鮮の基礎を気づいたのは金策であり、朝鮮戦争中に死ななければ金策は金日成にとってかわって北朝鮮を統治し、現在まで続く世襲国家はなかったであろうと著者は言う。しかし金策は金日成に暗殺された可能性も高く、そうした政敵を排除するような曖昧な部分の能力があったからこそ、スターリンやベリヤは金日成を北朝鮮の首領に選んだのではないだろうか。


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