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2012年2月14日 (火)

『奴婢訓』

万有引力の『奴婢訓』を見た。テーマは「たった一人の主人の不在によって巻き起こる奴婢達の狂乱」ということで、まさにその通りの舞台だった。

上演開始前から舞台上では演劇が始まっていたり、俳優が客席にまで入り込んで観客を巻き込んだり、繋がりのない引用や隠喩を羅列したりし、最後には俳優皆で狂気の乱舞、という、昨年観た『阿呆船』と同じような構成で寺山修司らしい演劇だと思う。それにしても、この人本当に幻覚症状が見えていたんじゃないかと思うほど、天才バカボンのような支離滅裂さで面白かった。特に『奴婢訓』では、二人の人間が平行方向に宙づりになる装置や、テーブルを挟んで椅子が二脚あり一人は頭を下にして座り、上下にくるくるまわることで、向き合う二人の位置と立場がくるくる変わる機械、自分で自分の尻を叩く一人お仕置き機など、さまざまな人力機械装置とでもいうものがあり、倒錯した世界観が表れていた。

物語というものはあるようでなく、スイフトの同名の作品を題材に、宮沢賢治の登場人物やセリフ(宮沢賢治も「幻覚の世界」とでもいうべきものを作り上げることに成功したのではないだろうか)を散りばめ、ジャン・ジュネの『女中たち』で描かれている主人と奴隷の倒錯という遊びを大人数で行うだけである。「たった一人の主人の不在」によって、カーニバルの「逆さまの世界」が繰り広げられる。本当は他にもいろいろなところから引用されているのだろうが、それ以外はよく知らない。ただセリフの一つひとつは本当に面白いと思った。

また、そのような舞台をうまく作り込んでいるので、純粋に楽しめて面白いのだが、ジュネにしてもカーニバル論にしても、その他の引用されたセリフにしても、70年代、80年代(といってしまうとくくりは大雑把になるが)という文脈でこそ生きてくるものだと思う。逆に言うと、今の時代にこれをやる意味はあるのだろうか?観客を巻き込むと言っても、本当に何かに巻き込まれてしまうという恐ろしさはまったくなく、アヴァンギャルド演劇という凄みはほとんど感じられなかった。むしろ、『奴婢訓』を観たのは初めてだったせいか、「70年代。80年代にはこんなことをやっていたんだ」と感嘆し、歴史を見たという気がした。

もちろん万有引力は、「寺山を構成に伝える」ということをコンセプトにしていて、まったく予想もしない新しいことをやろうとしているわけでないし、劇自体はとても楽しめたのでまったく問題ないとは思う。とはいえ、寺山修司や、それこそシーザー自身が、かつて追求していた「前衛的」な精神から作り出された劇も観てみたいとは思うのだ。

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