« 1947年のイタリア、デ・ガスペリと西側陣営への参加 | トップページ | 息子の名前 »

2011年10月10日 (月)

1935年までのファシスト・イタリアの対外政策の概要

石田憲『地中海新ローマ帝国への道―ファシスト・イタリアの対外政策1935-39』(東京大学出版会、1994年)p2-5より。

1861年のイタリア王国誕生以来、イタリアの対外政策にとって最も重要だったのは地中海であった。19世紀末の帝国主義国家間の争いにおいて、地中海では瀕死のオスマン帝国をめぐる領土争奪戦が展開された。しかし後進のイタリアの膨張政策は、常に地中海の要衝地を押さえていたイギリスを始めとする先発帝国主義国(フランス、オーストリア、ロシアなど)との交渉に左右され、イタリアの権益要求は、チュニス、トリポリはフランスによって(1878年ベルリン会議においてコンティ伯が「mani netti来よい手」によって、要するに何も要求しないことによって、フランスの北アフリカ進出が列強によって認められることになる)、アルバニアはオーストリア・ハンガリー帝国によって阻止されていた。

しかしロシア帝国の南下を牽制するために締結された、独墺伊三国同盟および地中海条約によって、イタリアは地中海における大国の一つとして認められるようになる。20世紀になるとアドリア海、エーゲ海にも進出し、1911年には伊土戦争(リビア戦争)によって、念願の北アフリカ沿岸の植民地を獲得する。

第一次世界大戦は、それまで当方に君臨していた東方の大国、オーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の解体をもたらし、長年弱い立場にあったイタリアは新たな機会を獲得したかに見えた。ところが実際は、英仏両国が蚕食する旧オスマン帝国領の「分配」や東南欧地域再編の「恩恵」にも与れず、十分な「報酬」も受けられなかった。このため戦間期におけるイタリアは、一方で戦勝国としての「正当な分け前」を要求しながら、他方では領土縮小に不満を持つ戦敗国の修正主義(ハンガリーやブルガリア)を支援することによって影響力拡充に努めた。地中海への新たな膨張と、中・東南欧域における勢力圏の形成を試みたのである。そしてこの時期におけるイタリア対外政策の基準点が、地中海において最大の軍事力と政治的影響力を持つ「海の女王」イギリスであった。ファシスト・イタリアは伊英関係における自らの位置を、「被保護国」から「パートナー」へと引き上げようとしたのである。

1920年代のイタリア対外政策は、基本的には自由主義イタリア外交の継続である。ムッソリーニは1925年1月にファシズム独裁を宣言したばかりで、国内では社会集団の解体再編(政党、労働組合、カトリック団体、商工業組合など)と非常独裁確立が急務であったので、外交政策にまでは手が回らず伝統的外務官僚の影響力が強くのこっていた。1923年のコルフ島事件に際しても、ムッソリーニは強攻策続行許さなかったし、マッテオッティ危機による国際的孤立も懸念されたので従来の外交の継承を対外的にも迫られていた。

1920年代がファシズム独裁の形成と国際協調の時代とすれば、1930年代は「非常独裁の恒常化」と対外冒険の時代と言えよう。一連の軍縮会議が頓挫した上、1930年10月にドイツの選挙でナチス党が勝利すると、ヒトラーを抑えられるのはムッソリーニだけだと見なされていたこともあり、イタリアがヨーロッパの均衡のための「決定的重し」になるとムッソリーニは計算していた。イタリアは一国では大国の中では最弱国の地位に甘んじるとしても、大国間の勢力均衡状態においては、その調整に決定的役割を果たすことができ、ファシスト・イタリアが主導権を発揮していっく基板は形作られたのである。

1932年にはグランディが外相を解任されムッソリーニ自らが外相に就任するとともに、伝統的外交官僚(スービッチ、アロイジ、グラリーリアら)の異動が行われ、併せてムッソリーニを脅しかえないファシスト・サブリーターたち(バルボやファリナッチら)も閑職に転任させられた。こうしてムッソリーニの個人独裁は対外政策においても貫徹可能となり、イタリアは自由主義期より繰り返し主張されてきた地中海への膨張を実行に移し始めたのだ。

またこの時期、国際連盟、ケロッグ・ブリアン不戦条約などの普遍的安全保障システムは、米国の孤立主義や大国間の思惑によって、徐々に機能しなくなりだた。こうした背景のもと、1933年7月15日に、ムッソリーニがイニシアティブを取ることによって米英独伊の四国条約が調印されることになる。この協定は、ドイツにとってはヴェルサイユ条約の限定的修正の承認であり、フランスにとっては中・東欧同盟体制(小協商:チェコ、ユーゴ、ルーマニアとの同盟体制)からの部分的撤退を意味し、イギリスにとっては、ドイツの台頭を他の三国によって抑制する第一歩と位置づけた。同時にイギリス政府は、当時最大の敵と見なしていた、東アジアで膨張を続ける日本に対抗するためにも、アジアと本国を結ぶ最短路である地中海の「平和」に固執し、伊英友好関係維持を死活問題と見なし始めていた。

こうして、イタリアは4国協定によって4大国の一角に食い込み、地中海・ヨーロッパにおける発言力を強化することができ、エチオピア戦争・スペイン内戦・第二次世界大戦によって破滅に至までのつかの間の「爛熟期」を迎えることになる。

|

« 1947年のイタリア、デ・ガスペリと西側陣営への参加 | トップページ | 息子の名前 »

イタリア現代史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 1935年までのファシスト・イタリアの対外政策の概要:

« 1947年のイタリア、デ・ガスペリと西側陣営への参加 | トップページ | 息子の名前 »