共和国記念日
日本は国民の祝日が先進国中一番多いそうだ。イタリアには確かに祝日が少ない。とはいっても夏に一か月ヴァカンスを取り、クリスマス2週間、復活祭1週間休むので一概には比較できないのかもしれない。このように休みはまとめてとるイタリアでは珍しいと言えるのかもしれない、単発の祝日の一つが昨日であった。
6月2日はイタリアの共和国記念日で、1946年のこの日、国民投票によって王政が廃止されイタリアは共和国として再出発することになった。この国民投票は国民がまっ二つに分かれ、共和制支持者:約1,272万票、王政支持者:約1,077万票と、200万票差で共和制支持者が勝利することになった。また、このとき白票が問題となり、体制選択国民投票を定めた法律では「得票数の多い方」ではなく「有権者の過半数」が選ぶ、と明記されているので、この票差は無効だという主張が王政派からなされた。
もっとも最終的には憲法裁判所が、法律の文言は「得票数の多い方」と解釈するのが妥当と判決を下した上、集計の結果、白票数は約150万票だとわかり、国民投票から半月以上もたった6月18日に共和制が確定する。そしてその間、両陣営では熾烈な争いが繰り広げられた。ともかく約45万票の差で、イタリアは共和制を選ぶことになったのだ。
1946年の段階で王室は不人気であった。これは1943年7月のムッソリーニ失脚後、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレⅢ世は、事務能力はある参謀長バドリオを首相にすえたのだが、すでに連合国がシチリアに上陸している一方、「同盟国」であるナチスドイツがイタリア侵入の機会をうかがっているという状況で、王室およびバドリオ政権が判断を誤り、その後2年弱もの間、イタリアを内戦の舞台に変えてしまったからである。
ムッソリーニ失脚後、戦争は継続すると声明を出したバドリオ政権であったが、ヒトラーはその声明をほとんど信用していなかった。そのような中、バドリオは秘密裏に英米と交渉を続けていたのだが、アイゼンハワーの強硬論に負け、ほとんど準備もしていないまま9月8日に連合国との休戦を発表する。寝耳に水のイタリア軍に対してかねてから用意のととのっていたドイツ軍は、またたくまにイタリア北部を占領。一方、王とバドリオは、イタリア国民を身捨てて、ローマから南伊のブリンディジに逃亡してまったのだ。
その後、イタリアを解放したのは、共産党・社会党・キリスト教民主党・行動党をはじめとした反ファシズム政党が結成する解放委員会と、それらに密接にかかわるレジスタンス運動であり、王の入り込む余地はほとんどなかった。
それにしても特記すべきは、このような王の”裏切り”にも拘らず、王制支持者が全イタリア人の半数近くもいたことである。いち早くファシズムおよびナチスドイツから解放された南部イタリアではほとんど内戦は起こらず、王の行動がそれほど”裏切り”とは見られなかったためか、国民投票でも南部の州では王制支持者が大半であった。また、相対的に工業が発展しておらず左翼の入り込む余地が少なかったことも理由に挙げられるかもしれない。
また、逃亡後いち早く実際の政権から身を引いたヴィットーリオ・エマヌエーレⅢ世はウンベルト皇太子を執政にした結果、国民投票は皇太子ウンベルトの執政法という形で実施されることになったのだが、国民投票直前の5月3日にウンベルト皇太子に王位を譲る。これによりウンベルトはウンベルトⅡ世として即位した結果、国民投票を規定したウンベルト執政法は無効である、との議論がされることになる。これは、王制支持者にとってプラスになったのかマイナスになったのかは何とも言えないところである。
1991年のマーノ・プリート(汚職摘発)で既存政党がほぼ壊滅するまで王党という政党があった。選挙では常に2~3%を占めていたのだが、この国民投票の結果を見ると、相当数の王政支持者が今でもイタリアにいるのかもしれない。
ちなみに、昨日の記念パレードではベルルスコーニ首相は20分ほど遅刻。イタリア分離を目指している(ふりをしている)北部同盟(LN)に属する、内務大臣ロベルト・マローニは欠席。逆に、ファシスト残党とも言われるイタリア社会運動(MSI)の流れを汲む元国民同盟(AN)(現在ANはベルルスコーニと自由の人民(PdL)を結成)に属する国防相イニャーツィオ・ラルッサは、イデオロギー的には共和制を受け入れられない(?)のであろうが、さすがに出席している。
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