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2009年6月

イルミナティ、フリーメーソンとリソルジメント運動について

ダン・ブラウン原作の『天使と悪魔』では秘密結社イルミナティが大きな役割を果たす。この映画の舞台はローマだが、イタリア王国建国期にも、イルミナティを始めとした秘密結社が活躍していた。

”リソルジメント”と称されるイタリア統一・独立運動は18世紀の後半に始まり、1861年のイタリア王国成立で一区切りするが(一方、この運動は”成就しなかった革命”としてファシスト政権期まで続いていたという見方もある)、最初期のリソルジメント運動に影響を与えたのはアメリカ独立戦争とフランス革命であった。

その二つの革命の原動力の一つは啓蒙主義(イタリア語でイルミニスティと言う)であり、イタリアでも啓蒙主義に基づく民主主義の思想が広まった。それと同時期にイタリアで広まったのが、アダム・ヴァウスハウプトが組織したバイエルンのイルミニティであり、1786年にはナポリにイルミナティのロッジが創られる。

その後、ナポレオンによる侵攻と撤退、再占領で大混乱をきたしたイタリアに、短命ながらイタリア独立運動の先鞭であり、後の共和国のモデルとなる二つの共和国が作られる。1798‐99年のナポリ共和国とローマ共和国である。ここで、イルミナティやイタリア・ジャコバン派が活躍することになる。

その後ナポレオン失脚と王政復興を経て、ヨーロッパ中で革命の嵐が吹き荒れた1848年、教皇が逃亡したローマで再び共和国が結成される。この第二次ローマ共和国で重要な役割を果たしたのがフリーメーソンであり、イタリアでは、18世紀後半、イルミナティのロッジが作られたのと同時期に、ナポリやローマ、トリノなどでフリーメーソンのロッジが多数出現する。

フリーメーソンというと何やら怪しげな響きがするが、18、19世紀のイタリアでは一種の政党のように理解されていた。実際、マッツィーニが組織した、イタリアではじめての政党「青年イタリア」も、秘密結社的で入会の誓いが必要であり当初はフリーメーソンのように見られていた。当時は、自由主義・共和主義者=フリーメーソンという図式が成り立っていたのである。ただし、最もフリーメーソンの思想を体現しているさえ言えるこのマッツィーニは、不思議なことにフリーメーソンには加入していない。イタリア統一運動の立役者カヴールも、赤シャツ隊を率いてシチリアに上陸したガリバルディもフリーメーソンの一員であった。

フリーメーソンの思想は、共和国を目指しキリスト教の神を唯一の神と認めないといったものだが、当然のことながらカトリック教会からは目の敵にされていた。それ故、カトリック教会は長い間、フリーメーソンによって作られたイタリア王国の存在自体を認めず、両者の反目が解けるのは1929年、ムッソリーニがフリーメーソンを弾圧して政界から一層した直後であった。

このように、イルミナティもフリーメーソンも、もともとカトリック教会の敵であった。フリーメーソンは第二次世界大戦後、キリスト教民主党およびカトリック教会の中にも入り込みPS事件のような陰謀事件が起こるのだが、イルミナティもその残滓は現在にも残っていると思われる。

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共和国記念日

日本は国民の祝日が先進国中一番多いそうだ。イタリアには確かに祝日が少ない。とはいっても夏に一か月ヴァカンスを取り、クリスマス2週間、復活祭1週間休むので一概には比較できないのかもしれない。このように休みはまとめてとるイタリアでは珍しいと言えるのかもしれない、単発の祝日の一つが昨日であった。

6月2日はイタリアの共和国記念日で、1946年のこの日、国民投票によって王政が廃止されイタリアは共和国として再出発することになった。この国民投票は国民がまっ二つに分かれ、共和制支持者:約1,272万票、王政支持者:約1,077万票と、200万票差で共和制支持者が勝利することになった。また、このとき白票が問題となり、体制選択国民投票を定めた法律では「得票数の多い方」ではなく「有権者の過半数」が選ぶ、と明記されているので、この票差は無効だという主張が王政派からなされた。

もっとも最終的には憲法裁判所が、法律の文言は「得票数の多い方」と解釈するのが妥当と判決を下した上、集計の結果、白票数は約150万票だとわかり、国民投票から半月以上もたった6月18日に共和制が確定する。そしてその間、両陣営では熾烈な争いが繰り広げられた。ともかく約45万票の差で、イタリアは共和制を選ぶことになったのだ。

1946年の段階で王室は不人気であった。これは1943年7月のムッソリーニ失脚後、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレⅢ世は、事務能力はある参謀長バドリオを首相にすえたのだが、すでに連合国がシチリアに上陸している一方、「同盟国」であるナチスドイツがイタリア侵入の機会をうかがっているという状況で、王室およびバドリオ政権が判断を誤り、その後2年弱もの間、イタリアを内戦の舞台に変えてしまったからである。

ムッソリーニ失脚後、戦争は継続すると声明を出したバドリオ政権であったが、ヒトラーはその声明をほとんど信用していなかった。そのような中、バドリオは秘密裏に英米と交渉を続けていたのだが、アイゼンハワーの強硬論に負け、ほとんど準備もしていないまま9月8日に連合国との休戦を発表する。寝耳に水のイタリア軍に対してかねてから用意のととのっていたドイツ軍は、またたくまにイタリア北部を占領。一方、王とバドリオは、イタリア国民を身捨てて、ローマから南伊のブリンディジに逃亡してまったのだ。

その後、イタリアを解放したのは、共産党・社会党・キリスト教民主党・行動党をはじめとした反ファシズム政党が結成する解放委員会と、それらに密接にかかわるレジスタンス運動であり、王の入り込む余地はほとんどなかった。

それにしても特記すべきは、このような王の”裏切り”にも拘らず、王制支持者が全イタリア人の半数近くもいたことである。いち早くファシズムおよびナチスドイツから解放された南部イタリアではほとんど内戦は起こらず、王の行動がそれほど”裏切り”とは見られなかったためか、国民投票でも南部の州では王制支持者が大半であった。また、相対的に工業が発展しておらず左翼の入り込む余地が少なかったことも理由に挙げられるかもしれない。

また、逃亡後いち早く実際の政権から身を引いたヴィットーリオ・エマヌエーレⅢ世はウンベルト皇太子を執政にした結果、国民投票は皇太子ウンベルトの執政法という形で実施されることになったのだが、国民投票直前の5月3日にウンベルト皇太子に王位を譲る。これによりウンベルトはウンベルトⅡ世として即位した結果、国民投票を規定したウンベルト執政法は無効である、との議論がされることになる。これは、王制支持者にとってプラスになったのかマイナスになったのかは何とも言えないところである。

1991年のマーノ・プリート(汚職摘発)で既存政党がほぼ壊滅するまで王党という政党があった。選挙では常に2~3%を占めていたのだが、この国民投票の結果を見ると、相当数の王政支持者が今でもイタリアにいるのかもしれない。

ちなみに、昨日の記念パレードではベルルスコーニ首相は20分ほど遅刻。イタリア分離を目指している(ふりをしている)北部同盟(LN)に属する、内務大臣ロベルト・マローニは欠席。逆に、ファシスト残党とも言われるイタリア社会運動(MSI)の流れを汲む元国民同盟(AN)(現在ANはベルルスコーニと自由の人民(PdL)を結成)に属する国防相イニャーツィオ・ラルッサは、イデオロギー的には共和制を受け入れられない(?)のであろうが、さすがに出席している。

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