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2009年5月

イタリアにとっての5月20日とは

 1882年、今から127年前の今日5月20日、イタリア王国はドイツ帝国(プロシア王国)、オーストリア・ハンガリー帝国と三国同盟を締結した。

 これはドイツ帝国宰相ビスマルクのフランス包囲網の一貫であり、伝統的にオーストリアと仲が悪いイタリアにとって外交上画期的な方向転換でもあった。

 現フランスのサヴァイアおよびピエモンテを本拠地とするサルディーニャ王国がイタリア半島を統一し、イタリア王国を成立させたのは、三国同盟締結のわずか20年ほど前、1861年のこと。このイタリア統一運動、いわゆるリソルジメントを成し遂げたのは、サルディーニャ王国宰相カヴールだといっても過言ではない。カヴールは1855年にクリミア戦争にサルディーニャ兵を送ることで、翌年のパリ会議で独立戦争に対するイタリアの立場をヨーロッパ中に知らしめる。また統一直前の1858年には、当時飛ぶ鳥を落とすほどの勢いだったナポレオン三世との二者会談にこぎつけ、独立戦争へのフランスの参戦を約束させる。

 そして、そのイタリア独立戦争の相手というのが、当時のロンバルディア(ミラノなど)やヴェネト(ヴェネツィア)を支配していたオーストリア・ハンガリー帝国だった。オーストリアに勝利し独立を手に入れたイタリア王国は、以後、ドイツ統一を競ってオーストリアと敵対していたプロシア王国と手を結ぶ。

 その後、プロイセン王国は、宰相ビスマルクの下、普墺戦争、普仏戦争に勝利してヨーロッパ1の強国になる。一方、イタリア統一の年(1861)にカヴールを失ったイタリア王国は、ビスマルク外交に翻弄され続け、1877年のベルリン会議の失敗を取り戻すべく、ビスマルクに誘われるまま、オーストリア・ハンガリー帝国と手を結んで三国同盟を締結することになる。

 この三国同盟は数度延長されることになるのだが、最終的には、三国のうちのどこかが攻撃された場合、他の二国には参戦の義務が生じるのだが、攻撃をしかけた場合は除くという但し書きがついていた。その但し書きが後の争点となる。

 1915年、今から94年前の今日5月20日、イタリア王国はドイツ帝国(プロシア王国)、オーストリア・ハンガリー帝国との三国同盟を破棄し、オーストリア・ハンガリー帝国に宣戦布告する。

 前年の1914年にオーストリア・ハンガリー帝国がセルビア王国に宣戦布告すると、同盟条約でがんじがらめ状態であったヨーロッパの列強は同盟条約を発動せざるを得ず、自動的に二つの陣営に分かれての大戦争に巻き込まれる。ただし戦争の準備ができていなかったイタリアは、オーストリアが一方的に宣戦を布告したということで、三国同盟から中立を承認される。しかし、各国とも短期で決着がつくと思っていた戦争が、前代未聞の総力戦よおび長期戦の様相を呈してくると、両陣営はイタリアを取り込もうと画策しはじめる。その結果、伝統的に反オーストリアの感情が強いイタリアは、統一後もオーストリア領として残っていたチロル地方やトリエステなどを戦後はイタリアに返すと約束したイギリスになびき、結局、三国同盟を破棄してオーストリアに宣戦布告することになった。

 ということで、5月20日は偶然にも三国同盟が始まった日でも終わった日でもあり、イタリアにとっては象徴的な日でもある。というのもこのイタリア王国の優柔不断さとある意味裏切りといえる行為は、第二次世界大戦時にも繰り返されるのである。

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イタリアの5月の首相および政党支持率

レプッブリカ紙が毎月行う世論調査によると、ベルルスコーニ首相の支持率が53%になり、アブルッツォの地震後の56%から3%下がった。これは、ベルルスコーニが18歳のモデルに入れ揚げ離婚を突き付けられたことと、リビアからの難民に対して厳しい態度をとったことに由来するという。

また、与党である自由の党(Pdl)および北部同盟(Lega)の支持率は50%のまま。対して野党である民主党(Pd)は33%、キリスト教民主・中道民主同盟(Udc)は34%、価値あるイタリア(???)(IdV)は41%の支持率だという。

さらに、移民に厳しい処置を下した内相マローニの支持率は斬減、対して経済相トレモンティは斬増したという。

支持率と言えば、ベルルスコーニは先月、支持率を指標にして「オバマ大統領より自分の方が上だ」と発言して顰蹙を買ったばかり。それにしても、イタリアと日本の支持率ってまったく違うと思った次第です。

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島尾敏雄について

 島尾敏雄の短編集(ちくま日本文学全集『島尾敏夫』)を読んで、先日、奄美大島を訪れたときのことを思い出した。元ちとせの出身地だという古仁屋まで足を伸ばしたのだが、古仁屋の港からはコバルトブルーの海を挟んだ対岸には加計呂麻島が窺え、複雑な形の入り江はまるで湖のように静かだった。その加計呂麻島は、太平洋戦争末期、特攻隊の基地があった島であり、島尾敏夫がその隊長として一年を過ごし、島の娘ミホと出会った場所でもあった。

 島尾敏雄にとって、この加計呂麻島での思い出はとても重要なものであったろう。

 件の短編集に所収されている短編は大きく次の3つのテーマに分けられる。

1 特攻隊長として過ごし、九死に一生を得た加計呂麻島時代(「出孤島記」など)
2 東京に来て精神病に罹った妻ミホ(「われ深きふちより」など)
3 夢と現の境があいまいになったような幻想(「夢屑」など)

 そして、この3つは島尾敏夫の人生の中で密接に関わっていると思われる。特攻隊長として周りから畏れ崇められつつ死と隣り合わせに生きてきた一年間が、日本の無条件降伏によって突如終わりを迎え、島尾は生きながらえる。特攻隊時代は平凡な日々への郷愁を抱きつつ、緊張感のある日々が日常になってしまい、いざ戦争が終わって平凡な日々が来るとその緊張感がどこか懐かしくなる。そうして夢と現がないまぜになったような状態を島尾は生き続けてきたのかもしれない。

 また死が約束されたような特攻隊長に毎日会いに来ていた島の娘ミホとは、死に別れるのが定めだと思っていた。しかし終戦となり、ミホを妻として迎えた島尾は念願であった平穏な家庭を築くことができた。だがそれもつかの間、精神病の発症により再び緊張の中を生きることになる。

 特攻隊というのは現在の我々からは、理屈でも分かっても感覚では決してわかるこのできないものなのだろう。後に自身も作家となり、ソクーロフの映画でも描かれている島尾ミホは「『隊長さま』(島尾敏夫のこと)は神様でした」といみじくも言っている。

 また興味深いことに、所収の短編『出発は遂に訪れる』で、日本の無条件降伏を部下の兵隊たちに知らせた夜、先任下士官が「あなたはご自分では気がつかないでしょうが、わたしから見れば、こう言っちゃなんですが幸福な環境ですよ。何不自由なく最高の学府を出してもらって」と島尾に詰め寄る場面がある。こうした自分とは違う出自・文化の人との根本的な断絶というのも、島尾敏夫のテーマの一つなのかもしれない。『川にて』では、癒しと安息を求めて奄美大島に帰ってきた島尾が、結局かつての”失われた生活”を取り戻せず、根本のところでの島人との断絶が描かれている。

 いずれにせよ、島尾敏雄の他の小説、特に有名な『死の棘』を読んでみようと思った。

死の棘 (新潮文庫)
Book
死の棘 (新潮文庫)
著者 島尾 敏雄
販売元 新潮社
価格(税込) ¥ 820

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イタリアの旧植民地とアフリカ難民

 リビア経由で地中海を渡りイタリアに辿り着いた難民を、イタリア政府が入国拒否してリビアに送り返した問題で国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)はイタリア政府に反対している。

 UNHCRスポークスマンのロン・レドモンドは「重大な懸念事項だ」と声明を出し、イタリア政府に送り返した難民を再び受け入れるように要請。「彼らは国際的な保護を求めている」とし、 1951年に採択された「難民の地位に関する条約」で規定されている「無拒否の原則」はいかなる地理的な制限も持たないと主張する内容の手紙をイタリア政府に送った。

 この声明は、先日、イタリアの上院議長フィーニが「国際法に則り、無法入国のボートピープルを受け入れることはできない」と発言したことを受けたもの。これはある意味論理的であり、フィーニが代表を務める国民同盟(AN)内に根強くある移民排斥の傾向とは分けて考えるべきかもしれない。

 UNHCRはまた、EU諸国の移民問題はわかるが、リビアは「難民の地位に関する条約」を批准しておらず、リビアに送り返された難民はイタリアなどが国際的な保護を与えるべきだとしている。

 興味深いのは、その際、リビア経由でイタリアに到達した難民として、ソマリアやエリトリアなどの国を挙げていることである。リビア、ソマリア、エリトリアの3国は第二次世界大戦後までイタリアの植民地だったが、イタリア、というよりファシズム政権が敗戦(1943年にファシズム政権が失脚したこともあり、イタリアは最終的には国連憲章107条、いわゆる「旧敵国条項」からは削除されている)したこともあって、イタリアから取り上げられた国である。この難民問題はイタリアのポストコロニアル問題と関係しているのかもしれない。

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