エウジェーニオ・パチェッリ、ピウス12世(Eugenio Pacelli, Pio XII)
1943年7月19日、ローマの7大聖堂の一つサン・ロレンツォ大聖堂は空爆を受ける。崩れ落ちたサン・ロレンツォ大聖堂の瓦礫の中に毅然として立ち、絶望するローマ市民を勇気づける、白い法衣のローマ教皇ピウス12世(Pio XII)の写真がある。
まるで地上に降り立った神の使いのようなピウス12世のその姿は、10日後のファシスト大評議会で全ての権力を失うこととなる、イタリアの統領(ドゥーチェ)ムッソリーニ(Mussolini)とは対称的で、ローマの本当の主は誰なのかを知らしめるに十分であった。
ローマはカトリックの都であったが、ナポレオン侵略以来、教皇は実質的な力を持てずにいた。1948年には、ピウス9世がローマから逃亡したことにより、マッツィーニ(Mazzini)やガリバルディ(Garibeldi)らも参加したローマ共和国が、1年半という短期間ながら誕生してしまうほどであった。
そして、1970年には新生イタリア王国軍がローマを占領する。かつてローマから逃亡したピウス9世はヴァチカンに閉じこもり、カトリック教会はイタリア王国と敵対関係になる。以後60年ほど、カトリック教会はイタリア王国を認めず、イタリア王国もカトリック教会を正式に認めない状態が続き、1929年にピウス11世とムッソリーニがラテラーノ条約を結ぶことで漸く、カトリック教会およびイタリア王国はお互いを正式に認めることになる。
ラテラノ条約は歴代教皇の所在地であったサン・ジョヴァンニ・インラテラーノ大聖堂で結ばれた三つの条約の総称で、①ヴァチカン市国の成立させた条約、②経済条約、③”コンコルダート”と称される政教条約、から成る。これによりカトリック教会は経済的に一息ついたが、ファシズム政権の消極的な”協力者”とみなされてしまう。こうしてカトリック教会はファシズム政権に実質的に従属し、本当の意味で教皇が独立するのは、冒頭で触れたピウス12世期のムッソリーニ失脚後であった。
さて、前置きが長くなったが、その教皇ピウス12世について、大澤武男の『ローマ教皇とナチス』という本が詳しく述べている。
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ローマ教皇とナチス (文春新書) 著者:大澤 武男 |
ピウス12世の本名はエウジェーニオ・パチェッリ(Eugenio Pacelli)。生粋のローマ人で、家は代々教会法顧問として教皇庁に勤務してきた。
「ゆるぎない深い信仰を持ち、その名が示すように《敬虔》(イタリア語の”ピオ”は”敬虔”という意味)に徹した、高潔なピウス12世の人格を知れば知るほど、ナチス・ドイツに対する好意とその犯罪に対する沈黙は不可解というほかはない」という一文がよく表しているように、この本では、ピウス12世のドイツとの関わりやその反共産党・反ユダヤ主義の根本にあるもの、また、その結果としてヒトラー(Hitler)とナチスを最後まで批判できなかった理由と、そのことに対する良心の呵責と苦悩などが、多少図式的すぎるとはいえ、詳細に述べられている。
詳細なムッソリーニ伝を著した歴史家レンゾ・デ・フェリーチェ(Renzo de Felice)が、1929年~1936年までを扱った第3部第1巻の副題を「合意の時代」として、イタリア国民やカトリック教会のファシズム政権に対する「共感・合意」を分析して以来、イタリアでもファシズム政権を支持してさえいたカトリック教会側の罪について議論されることがある。
その「合意時代」の始まりの1929年というのが、先に述べたムッソリーニとカトリック教会による政教協定ラテラーノ条約(patti Lateranensi)が締結された年にあたる。一方、ドイツのナチスへのカトリック教会の「合意」を考える上で重要なのが、1933年7月の政教条約・コンコルダートである。
ナチス政権というのはイタリア・ファシズム政権よりもはるかに短く、ヒトラーが首相になったのは1933年の1月である。ナチスとカトリック教会がコンコルダートを結ぶわずか半年前であり、カトリック教会も諸外国も、反共の砦として、多少胡散臭くても目をつぶってナチス政権を歓迎していた時期でもあった。
ところで、ラテラーノ条約、ナチスとのコンコルダートとも前任のピウス11世が教皇のときに結ばれたのだが、この本の著者・大澤さんが指摘するように、前者はパチェッリ(ピウス12世)を引き立てたヴァチカン国務長官ガスパッリ(Gaspalli)が、後者はパチェッリ自身が国務長官として結んだものである。
イタリア、特にローマではピウス12世の人気はとても高く、ナチスとの関係を批判するときも何だかトーンが下がってしまっている傾向がある気がする。その点、この本の著者は、ドイツ・ユダヤ人史を専門にしていることもあってか、最終的にはナチス政権を名指しで批判したピウス11世と、ホロコーストを知っていながらも最後までナチスとヒトラーを批判しなかったピウス12世の違いを鮮明にし、苦悩しながらもナチスに妥協し続けたピウス12世の否を指摘している。また、クロアチアのパヴェリッチ政権を支持したことにも触れているが、これはあまり語られることがないが、ピウス12世を語る上では重要なことだと思う。
とはいえ著者は一方的に教皇を批判するだけではない。「沈黙した教皇をとがめるならば、連合国側のユダヤ人に対する冷淡な態度も同時に追及しなけらばならない」と言い、ナチスのユダヤ人迫害を止めることができなかった理由の一つとして、ヨーロッパ文化に潜在的に、そして深く根差す反ユダヤ主義を挙げている。
確かに、英・仏、そして米は、最後の最後までスターリンよりもヒトラーの方に親近感を持っていたようである。それは反共というイデオロギーの問題に加えて、人種的な問題も関係してくるのではないだろうか。
例えば、アウシュピッツなどドイツの絶滅収容所では人種のヒエラルキーがあったそうだ。大まかにいうと、ドイツ人>アングロ・サクソン>ラテン人>スラヴ人>ユダヤ人・ジプシーの順で差別化されていたそうだ。これはヨーロッパ人全体に今でも無意識に残る考え方ような気もするのだ。さらに言えば、汎スラヴ主義なども、こういった図式に対する反発と見ることができるかもしれない。
それでは日本人はどこに位置するのであろうか。ドイツ・イタリアの同盟国であったが、実際にヨーロッパ人はどう思っていたのだろうか?そして、ナチス政権、ファシズム政権、ともに中枢部に近いところにいたピウス12世、ひいてはカトリック教会は、日本という国をどのように考えていたのであろうか?
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