2012年4月21日 (土)

李命英『金日成は四人いた』

伝説の英雄「キム・イルソン」は北朝鮮の領袖の金日成か?

この本の著者・李命英は、幼い頃に聞いた英雄の名前と1945年に平壌に姿を現した金日成は同一人物ではあり得ないと疑問に思い、金日成の正体を明らかにしようとした。

「キム・イルソン」伝説の矛盾は、1907年の義兵闘争、1919年三・一独立運動、そして1937年6月4日の普天堡襲撃のどれにも、「キム・イルソン」将軍が関わっていることである。

1945年に登場した30代の青年将軍が、1907年に指揮をとっていたことはあり得ない。1907年の義兵闘争とは、韓国統監府による韓国皇帝強制譲位と韓国軍解散に反対した軍人たちが起こした抗日義軍である。日本側の記録に「キム・イルソン」の名はないが、白頭山を拠点に活動する少数の「キム・イルソン将軍」率いる部隊の記憶は残っているという。

1907年、18、9歳で義兵として立ち上がった金昌希は、金一成(金日成①)と名乗って五峰山に拠り抗日遊撃戦を繰り広げる。その後、地方の有力者を捉えたため警察から追われて白頭山に拠点を移し、三・一独立運動では独立武装闘争を強化。1922年に一度日本の警察に捕まるが脱出し、伝説となる。おそらく1931年満洲事変に際して反日部隊の中に名前が無いのを見ると、おそらく1920年代後半には亡くなったのであろう。

また、それとは別に、日本陸士卒の「キム・イルソン」将軍という伝説もあったという。これは、1911年に陸軍士官学校を卒業した金光端(金日成②)であろう。金光端は、私費で日本に留学し日本軍将校となるが、三・一独立運動の折に傷病休職を願い出て帰国。1919年6月に満洲にわたり、独立軍兵士養成所で軍事教育を始める。その後、武器調達のためソ連に入り、独自の抗日闘争を始める。赤軍と協力はするが、共産主義者ではなく、1923年の朝鮮国内の新聞東亜日報による独占インタビューでは、白馬にまたがって指揮をした、と書かれている(白馬に乗った将軍というのも、金日成伝説の一つである)。日本側資料に関しても、鎌田沢一郎『朝鮮新話』に、シベリア出兵の際に「金日成」が正面の敵だったという記述がある。日本軍のシベリア撤退とともに、ソ連政府は日本の再介入を恐れて抗日部隊の武装解除を強制。金光端は露満国境で屯田制実施し将来に備えて軍事訓練を実施していたが、1925年の日ソ基本条約を期に共産主義者たちとは決別し、満洲で地下運動を続けていたようだ。

さらに、1937年の普天堡襲撃の金日成は、彼ら二人とはまったくのない金成柱(金日成③)という人物である。1934年にソ連か関係ら満州に派遣された東北人民革命軍第二軍第二師に参加した金成桂は、抗日パルチザン時代の金日成の最大の功績としてよく引き合いにだされる普天堡襲撃(レーニンの宣伝画とほぼ同じ構図の宣伝画もかなりの程度流布されていた)を指揮して、一躍有名になる。その後、金成柱が死亡すると、彼の部下である金一星(金日成④)が「キム・イルソン」の名を継ぐ。この第二方面軍では、「キム・イルソン」という名前が大事だったのであり、通常の作戦においても、撹乱のため各小隊の隊長がそれぞれ「キム・イルソン」を名乗っていたという。そして、その中の一人に後の北朝鮮の領袖・金日成もいた。

北朝鮮の領袖・金日成の本名は金聖柱で、1912年生まれ。若いころから共産系馬賊に属していたごろつきであったが、満洲事変後に張学良が共産主義者への抑圧を強めると朝鮮革命軍に逃げ込み、そこで信用されていないと気付くとすぐに革命軍を飛び出す。これは1932年のことであり、それから1945年10月に「金日成将軍」として平壌に姿を現すまでの記録はない。とはいえ、1940年12月に野副討伐軍に追われた抗日連軍の敗残兵がソ連領に逃亡したのだが、その中の一隊が第二方面軍長金成柱(金日成③)に率いられた部隊で、金日成もそのうちの一人だったと推測できる。それから5年間、ソ連でスパイの訓練を受けていたためロシア語は堪能であったそうだが、偽の経歴を作り上げるためにソ連には一度も行ったことがないと公式に表明し、実際は必要ないにもかかわらず、ソ連の軍人に会う時も通訳をつけていたという。ちなみに息子のユーラ(後の金正日)はソ連で生まれた。

金日成の経歴は、井崗山、瑞金、長征、延安と革命拠点作りと対日闘争を展開してきた毛沢東の経歴を手本にしているというが、毛沢東の経歴も作られたものである。また、農民からの搾取や敵対する人を虐殺するなど金日成の本性は悪辣非道だというが、毛沢東の残忍さには比ぶべくもないであろう。

ともかく1945年の段階で、スターリンとベリヤが牛耳るソ連の政策は、「すべての占領地域に共産政権をうち立てて、その政権を徹底的に傀儡かすること…占領地域に自分たちが認めることのできる共産党がすでに存在する場合を除いて、ソ連の忠実な下僕となるように仕込んだ人間たちの中から適任者を選び出し、その地域の責任者に据え」るというものであった。そしてそうした責任者はある程度、その国において何らかの社会的業績や名声のある人物である、といった条件が必要であった。そうした状況で、スターリンと共通する権力志向と粛正を好む性向を持った金日成が選ばれたのであろう。

馬賊あがりのゴロツキであった金日成には国家統治能力はなく、北朝鮮の基礎を気づいたのは金策であり、朝鮮戦争中に死ななければ金策は金日成にとってかわって北朝鮮を統治し、現在まで続く世襲国家はなかったであろうと著者は言う。しかし金策は金日成に暗殺された可能性も高く、そうした政敵を排除するような曖昧な部分の能力があったからこそ、スターリンやベリヤは金日成を北朝鮮の首領に選んだのではないだろうか。


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2012年3月27日 (火)

タブッキとペレイラ

アントニオ・タブッキがリスボンで死んだ。癌だったそうだ。

タブッキの作品で一番面白いのは、やはり『供述によるとペレイラは…』だと思う。真夏のうだるようなリスポンが目に浮かぶような物語。「リスポンの町はきらきらと輝いていた」のように訳す須賀敦子の日本語も情緒が出ていていいけど、イタリア語の原文がまた素晴らしいと思った。(そういえば、ペルージャでお世話になった先生も、ローマ同居していたマルコも、完璧なイタリア語として紹介してくれたのが、この「Sostiene Pereira」だった)

「日増しに言論が抑圧されていくサラザール政権下、ちょっとした地位も名誉もあって日和見的だった新聞記者ペレイラが、ふとしたことで知り合って肩入れした左翼の若者が自分の家でリンチにあって殺されたのを目の当たりにし、自由のために立ち上がる」と要約すると、よくある図式的な小説のように聞こえるけど、実際はよく練られた小説であり、最後にポルトガルを飛び出し祖国の真実を訴えるペレイラが供述する形で進んで行くという手法もうまく生きている。

最も印象深いのは、ペレイラが温泉治療への旅の途中で電車から眺めたコインブラの海岸で若く力あふれる過去の自分を回想するシーンで、誰からも好かれた若いペレイラは、なぜか地味な女性に気を引かれ結婚することになる。病気がちな彼女はすでに亡くなっているのだが、そのあたりの機微については「供述したくない」と言う。

そんなペレイラを読んで、映画も見た5年程前にちょうどリスポンに行く機会があったが、イタリア語版文庫本の表紙に使われているパスティッチェリアを見れて、ファドが流れて時間がゆったりとすすむ1930年代のリスポンの夏の雰囲気もなんとなくわかる気がして、感激した。

『インド夜想曲』や『レクイエム』なんかも幻想的で面白いし、短編集なんかも秀逸だけど、どちらかというとこの『供述によるペレイラは…』と『ダマセーロモンテッロの失われた首』という、どちらかというと社会的な作品の方が個人的には好きだ。それにしてもタブッキが死んだのは本当に残念だ。

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2012年2月14日 (火)

『奴婢訓』

万有引力の『奴婢訓』を見た。テーマは「たった一人の主人の不在によって巻き起こる奴婢達の狂乱」ということで、まさにその通りの舞台だった。

上演開始前から舞台上では演劇が始まっていたり、俳優が客席にまで入り込んで観客を巻き込んだり、繋がりのない引用や隠喩を羅列したりし、最後には俳優皆で狂気の乱舞、という、昨年観た『阿呆船』と同じような構成で寺山修司らしい演劇だと思う。それにしても、この人本当に幻覚症状が見えていたんじゃないかと思うほど、天才バカボンのような支離滅裂さで面白かった。特に『奴婢訓』では、二人の人間が平行方向に宙づりになる装置や、テーブルを挟んで椅子が二脚あり一人は頭を下にして座り、上下にくるくるまわることで、向き合う二人の位置と立場がくるくる変わる機械、自分で自分の尻を叩く一人お仕置き機など、さまざまな人力機械装置とでもいうものがあり、倒錯した世界観が表れていた。

物語というものはあるようでなく、スイフトの同名の作品を題材に、宮沢賢治の登場人物やセリフ(宮沢賢治も「幻覚の世界」とでもいうべきものを作り上げることに成功したのではないだろうか)を散りばめ、ジャン・ジュネの『女中たち』で描かれている主人と奴隷の倒錯という遊びを大人数で行うだけである。「たった一人の主人の不在」によって、カーニバルの「逆さまの世界」が繰り広げられる。本当は他にもいろいろなところから引用されているのだろうが、それ以外はよく知らない。ただセリフの一つひとつは本当に面白いと思った。

また、そのような舞台をうまく作り込んでいるので、純粋に楽しめて面白いのだが、ジュネにしてもカーニバル論にしても、その他の引用されたセリフにしても、70年代、80年代(といってしまうとくくりは大雑把になるが)という文脈でこそ生きてくるものだと思う。逆に言うと、今の時代にこれをやる意味はあるのだろうか?観客を巻き込むと言っても、本当に何かに巻き込まれてしまうという恐ろしさはまったくなく、アヴァンギャルド演劇という凄みはほとんど感じられなかった。むしろ、『奴婢訓』を観たのは初めてだったせいか、「70年代。80年代にはこんなことをやっていたんだ」と感嘆し、歴史を見たという気がした。

もちろん万有引力は、「寺山を構成に伝える」ということをコンセプトにしていて、まったく予想もしない新しいことをやろうとしているわけでないし、劇自体はとても楽しめたのでまったく問題ないとは思う。とはいえ、寺山修司や、それこそシーザー自身が、かつて追求していた「前衛的」な精神から作り出された劇も観てみたいとは思うのだ。

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2012年1月14日 (土)

サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン 青春と革命の時代』

今読んでいるが、翻訳も読みやすく面白い。

『スターリン 青春と革命の時代』Simon Sebag Montefiore Young Stalinは、『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』Stalin: The Court of the Red Tsar の続編で、後者は、まさにスターリンが権力を握ろうとする1930年代半ばからのスターリンを描いているのに対して、本作は権力を手に入れる前のスターリンの半生の研究である。2冊ともにスターリンの個人的な手紙や最近公開された様々な資料を元に、これまでは触れられることの少なかった生身のスターリン像が描き出されている。これまでのスターリンについての研究書は概して、政治やイデオロギーを分析することでスターリン像を逆に単純化してしまい、共産主義国家でありながら独裁主義国家でもあり、コスモポリタニズムでありながら国粋主義的でもあるソヴィエトへの理解を難しくしているように思える。対して本書の序文には、特異なソヴィエト体制というものを端的に表している一文がある。

実際、レーニン・スターリン主義の悲劇の多くのことに納得がいくのは、次のことに気づく場合だけである—ボリシェヴィキは、クレムリンに世界最大の帝国の政府を構えようが、あるいはチフリスの居酒屋の奥部屋で目立たない小徒党を立ち上げようが、同じ隠密スタイルで行動しつづけたのだと。

これと同じようなことは、前作『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』でも繰り返し触れられている。大粛正(テロル)、独ソ戦を経たソヴィエト政府の政策は、毎晩毎晩、夜が空けるまでスターリンの家で開かれた宴会で決まっていたのであり、モロトフもベリヤもフルシチョフも、そうした小さなサークルの常連であったのだ。

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2011年11月20日 (日)

宮崎正弘『中国が日本人の財産を奪いつくす』

徳間書店、2011年。+『出身地でわかる中国人』PHP新書、2006年。
日本ばかりか世界中の資源や領土、水を買いあさっている中国人。
蒙古族やウイグル、チベット族など周辺民族を「同化」(要するにジェノサイド)し、「超限戦」を駆使して中華思想を押し進める。しかし「中国」といっても内部での統一はまったくとれておらず、いわゆる国民国家といえるのかどうか非常に疑わしい。
2012年には胡錦濤に代わって習近平が国家主席になるだろうが、習近平の関心は現状維持と特権の保持のみで、民主化にはまったく興味はないという。そして経済格差が広がり国民の不満が高まってきているのに比例して、2010年の反日デモのような、官製デモを意図的に作り出してメディアで反日感情を煽ることがますます増えていくのだろう。

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2011年10月19日 (水)

息子の名前

名前を考えてブレーンストーミング中である。

日経アソシエによく載っているマインドマップみたいのものを作って(といっても十字に線を引いただけだが)、縦軸に五感をとって、お互いキーワードを言い合うのだが、コリン・ファース、インドヒッピー、軽い、カルバドス、サラサラ、ボサノボ、リップスライムなど、収拾がつかなくなってしまった。

なぜか琥珀という名前がでてきた。確かにいいかもしれない。桃太郎よりはいいかなあ。「琥珀はブレーンストーミングに合っている」というが、どうか?アマーロ、ドルチェ、南国観だそうな。昔ヤシの木は南国に生えていたという。うちの母親と嫁さんが電話で話していたら、木へんに光の「こう」を使えと言ったそうだが、そんな漢字はあるのか?すでに舞い上がっている模様。

やはりシングルマンのコリン・ファースのようなイメージがいいのではないか?とSartoriaという街角のおしゃれな人の写真をひたすら載せるサイトを見ていたら、名前がでてくるかと思ったらでてこなかった。琥珀とかけてアンバーマンと調べたら、カーティスアンドマルドーンがでてきた。けっこういいなあ。ということで、子供のテーマソングになってしまった。コリン・ファースなら、ヘレナボナムカーターと「パパパパパパ」と言って遊んでられるのに、って思ってたら、コリンは小倉優子になると言われてびっくり。

その他、南北、十二十一(山本五十六にあやかった)、寛三郎、達筆夫、などなどがでてきた。フルーツを使った名前がいいとかで、柑、梅、苺などを使ってはという意見もあり。

結局カーティスアンドマルドーンの「アンバーマン」をアマゾンで買って、今日のブレーンストーミングは終わった。

やれやれ。結局顔を見なければわからないと言う話しに落ち着くんだろうか。そうすると土壇場まで決まらず、土壇場でも決まらないんだろうなあ。生まれてから二週間以内に決めないと、自動的に太郎になると日本では決められている、と主張されたので、いっそのこと太郎でいいんじゃないかな?

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2011年10月10日 (月)

1935年までのファシスト・イタリアの対外政策の概要

石田憲『地中海新ローマ帝国への道―ファシスト・イタリアの対外政策1935-39』(東京大学出版会、1994年)p2-5より。

1861年のイタリア王国誕生以来、イタリアの対外政策にとって最も重要だったのは地中海であった。19世紀末の帝国主義国家間の争いにおいて、地中海では瀕死のオスマン帝国をめぐる領土争奪戦が展開された。しかし後進のイタリアの膨張政策は、常に地中海の要衝地を押さえていたイギリスを始めとする先発帝国主義国(フランス、オーストリア、ロシアなど)との交渉に左右され、イタリアの権益要求は、チュニス、トリポリはフランスによって(1878年ベルリン会議においてコンティ伯が「mani netti来よい手」によって、要するに何も要求しないことによって、フランスの北アフリカ進出が列強によって認められることになる)、アルバニアはオーストリア・ハンガリー帝国によって阻止されていた。

しかしロシア帝国の南下を牽制するために締結された、独墺伊三国同盟および地中海条約によって、イタリアは地中海における大国の一つとして認められるようになる。20世紀になるとアドリア海、エーゲ海にも進出し、1911年には伊土戦争(リビア戦争)によって、念願の北アフリカ沿岸の植民地を獲得する。

第一次世界大戦は、それまで当方に君臨していた東方の大国、オーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の解体をもたらし、長年弱い立場にあったイタリアは新たな機会を獲得したかに見えた。ところが実際は、英仏両国が蚕食する旧オスマン帝国領の「分配」や東南欧地域再編の「恩恵」にも与れず、十分な「報酬」も受けられなかった。このため戦間期におけるイタリアは、一方で戦勝国としての「正当な分け前」を要求しながら、他方では領土縮小に不満を持つ戦敗国の修正主義(ハンガリーやブルガリア)を支援することによって影響力拡充に努めた。地中海への新たな膨張と、中・東南欧域における勢力圏の形成を試みたのである。そしてこの時期におけるイタリア対外政策の基準点が、地中海において最大の軍事力と政治的影響力を持つ「海の女王」イギリスであった。ファシスト・イタリアは伊英関係における自らの位置を、「被保護国」から「パートナー」へと引き上げようとしたのである。

1920年代のイタリア対外政策は、基本的には自由主義イタリア外交の継続である。ムッソリーニは1925年1月にファシズム独裁を宣言したばかりで、国内では社会集団の解体再編(政党、労働組合、カトリック団体、商工業組合など)と非常独裁確立が急務であったので、外交政策にまでは手が回らず伝統的外務官僚の影響力が強くのこっていた。1923年のコルフ島事件に際しても、ムッソリーニは強攻策続行許さなかったし、マッテオッティ危機による国際的孤立も懸念されたので従来の外交の継承を対外的にも迫られていた。

1920年代がファシズム独裁の形成と国際協調の時代とすれば、1930年代は「非常独裁の恒常化」と対外冒険の時代と言えよう。一連の軍縮会議が頓挫した上、1930年10月にドイツの選挙でナチス党が勝利すると、ヒトラーを抑えられるのはムッソリーニだけだと見なされていたこともあり、イタリアがヨーロッパの均衡のための「決定的重し」になるとムッソリーニは計算していた。イタリアは一国では大国の中では最弱国の地位に甘んじるとしても、大国間の勢力均衡状態においては、その調整に決定的役割を果たすことができ、ファシスト・イタリアが主導権を発揮していっく基板は形作られたのである。

1932年にはグランディが外相を解任されムッソリーニ自らが外相に就任するとともに、伝統的外交官僚(スービッチ、アロイジ、グラリーリアら)の異動が行われ、併せてムッソリーニを脅しかえないファシスト・サブリーターたち(バルボやファリナッチら)も閑職に転任させられた。こうしてムッソリーニの個人独裁は対外政策においても貫徹可能となり、イタリアは自由主義期より繰り返し主張されてきた地中海への膨張を実行に移し始めたのだ。

またこの時期、国際連盟、ケロッグ・ブリアン不戦条約などの普遍的安全保障システムは、米国の孤立主義や大国間の思惑によって、徐々に機能しなくなりだた。こうした背景のもと、1933年7月15日に、ムッソリーニがイニシアティブを取ることによって米英独伊の四国条約が調印されることになる。この協定は、ドイツにとってはヴェルサイユ条約の限定的修正の承認であり、フランスにとっては中・東欧同盟体制(小協商:チェコ、ユーゴ、ルーマニアとの同盟体制)からの部分的撤退を意味し、イギリスにとっては、ドイツの台頭を他の三国によって抑制する第一歩と位置づけた。同時にイギリス政府は、当時最大の敵と見なしていた、東アジアで膨張を続ける日本に対抗するためにも、アジアと本国を結ぶ最短路である地中海の「平和」に固執し、伊英友好関係維持を死活問題と見なし始めていた。

こうして、イタリアは4国協定によって4大国の一角に食い込み、地中海・ヨーロッパにおける発言力を強化することができ、エチオピア戦争・スペイン内戦・第二次世界大戦によって破滅に至までのつかの間の「爛熟期」を迎えることになる。

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2011年9月29日 (木)

1947年のイタリア、デ・ガスペリと西側陣営への参加

1947年1月のイタリア共和国首相デ・ガスペリによる米国訪問は、第二次大戦後のイタリアの進むべき道を決定付ける出来事であった。この訪問時に、トルーマン大統領及びアスチンと会談したデ・ガスペリは、イタリアが西側陣営につくことを明言したのだ。日本がサンフランシスコ講和条約で主権を回復する4年前のことである。

面白いことに、デ・ガスペリ訪米時の外相は社会党(イタリア統一プロレタリア社会党:PSIUP)のネン二であったが、米訪問には同行していない。なぜならその時期、ローマ大学「サピエンツァ」で社会党全国大会が行われていたからである。この全国大会でサラガドら社会党右派はプロレタリア社会党(PSIP)を設立し、社会党から分離する。PSIPに参加した人数自体は少なかったものの、結果的には社会党の立憲議会議員の半数がサラガドに従うことになり、勢力を大きく削がれた社会党主流派は党員の結束を固めるためか党名をPSIUPからイタリア社会党(PSI)という戦前の名称に戻すことになる。しかし、そうした試みにもかかわらず、戦前・戦中に活躍したシローネらは第三の分離派を作り、結局はサラガドらに合流することになる。ネンニはイタリアが西側へつか東側へつくかという問題よりも、社会党内部の問題を優先させたと言えなくもないのだ。

一方、前年(1946年)11月の地方選挙では各地で共産党(PCI)が躍進し、キリスト教民主党(PD)や社会党(PSIUP)が議席を失うとともに、自由党や共和党など右派勢力が軒並み票を失っていた。それにもかかわらずデ・ガスペリは1947年2月の段階までは三党内閣を保たなければならなかったのである。その月にパリ条約が調印されることになるのだが、敗戦国なみの扱いを受けざるを得ないイタリアは、どのような条件でもイタリア市民が満足できる条約を締結できる見込みはなく、PSIおよびPCIが参加した内閣が条約を締結して責任を共有しなければならなかったからである。実際、西側陣営への参加を表明してアメリカから帰国するとすぐに、デ・ガスペリは内閣を作り直すのだが(第三次デ・ガスペリ内閣)、DC、PSI、PCI三党参加の内閣にせざるを得なかったのだ。もっとも外相には、戦前コルフ島事件などを解決した自由党系のスフォルツォを任命し、社会党、共産党には重要なポストを与えなかった。

この年の4月にはアメリカ国務長官(外相)マーシャルが欧州復興計画、いわゆる「マーシャルプラン」を発表する。デ・ガスペリは内閣から共産党・社会党を排除して第四次デ・ガスペリ内閣を形成し、マーシャルプラン受け入れを表明する。これでイタリアの西側陣営への参加は確実となり、ソ連とは距離を置いて2年後にはNATOに加盟することになる。

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2011年9月18日 (日)

1920年代後半のファシズムの文化政策

ファシズム政権は文化の面にも介入しようとしていた。1925年にジェンティーレを中心に『イタリア百科事典』の企画が発表され、翌1926年には「イタリア学士院」が創設される。

ファシズム初期の原動力は反体制と革命であったため、マリネッティを始めとした未来派が多数ファシズムに流れ込んできた。後の国民文化相ボッタイも1920頃は「ローマ未来派」誌の編集長をつとめていた程である。しかしマリネッティは1929年にはイタリア学士院会員となり、もはや保守体制側となったファシズム政権に取り込まれてしまう。

逆説的なことに、1920年代後半に親ファシズム路線を最も精力的に展開していた知識人マラパルテやマッカーリは、ムッソリーニにとっては最も扱いにくい文化人と見なされるようになる。なぜなら彼らはファシスト運動が持つ、反逆的で革命的な側面に熱狂していたからである。体制を破壊し英雄たちによる独裁を主張した左翼的な初期ファシズム神話は、財界、国王、教会と調停を計らねばならない1920代後半〜30年代前半にかけてのムッソリーニにとっては不必要なものだった。結局マラパルテは1929年に「スタンパ」紙の編集長に任じられ、ある意味、体制にとりこまれていくことになる。

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2011年9月14日 (水)

第一次世界大戦勃発時のイタリア

1914年6月28日に起きたサラエボ事件の報復として、オーストリアがセルビアに宣戦布告することが引き金となって第一次世界大戦が勃発したが、当初イタリアは中立を宣言した。「独墺伊の三国同盟は締結国が第三国に攻撃されたときのみ効力を発するのであって、締結国から一方的にしかけた戦争時には適用されない」というような理由で、独墺の参戦要求を断った。当時のイタリアは陸上でも海上でも、植民地でも、また産業でも市民組織でも文化面でも、列強諸国と対等にわたりあえる状態ではなかった。また、1882年から続くハプスブルグ帝国オーストリアとの同盟はトレンティーノ、ヴェネツィア・ジューリアをあきらめることを意味し、その代償のおかげで独墺以外の国友友好関係を結び、1911年リビアを獲得することができたのだが、一方ではそれらの地域は未回復地(イッレデント)の問題としてイタリア人のナショナリズムを煽る要素ともなっていた。そうした理由で、1914年に中欧諸帝国とともに戦争に巻き込まれる展望が起きたことにイタリア人のほとんどは熱狂せず、「ワルツのターン」と評されたイタリアの外交政策も否定できるものではなかったのであろう。

しかし短期戦と思われていた戦争が一年も続くと、当初期待されていた戦争特需もほとんどないまま逆に輸出先を失い原材料も入ってこなくなったイタリア国内の経済状況が悪化し、参戦論が主流となってくる。ここで重要な役割を果たすのは、イタリアの歴史上初めて主役となる中間諸階層であった。そして彼らに、これまでとまったく新しい演劇的ともいえる政治スタイルで訴えかけたのが、ナショナリストのロッコであり、社会党を離党したムッソリーニであり、国民的英雄に祭り上げられたダンヌンツィオであった。皮肉なことに、彼らは攻撃の対象とした社会主義政党が大衆へ訴えかけるスタイルを真似たのだ。

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