イルミナティ、フリーメーソンとリソルジメント運動について

ダン・ブラウン原作の『天使と悪魔』では秘密結社イルミナティが大きな役割を果たす。この映画の舞台はローマだが、イタリア王国建国期にも、イルミナティを始めとした秘密結社が活躍していた。

”リソルジメント”と称されるイタリア統一・独立運動は18世紀の後半に始まり、1861年のイタリア王国成立で一区切りするが(一方、この運動は”成就しなかった革命”としてファシスト政権期まで続いていたという見方もある)、最初期のリソルジメント運動に影響を与えたのはアメリカ独立戦争とフランス革命であった。

その二つの革命の原動力の一つは啓蒙主義(イタリア語でイルミニスティと言う)であり、イタリアでも啓蒙主義に基づく民主主義の思想が広まった。それと同時期にイタリアで広まったのが、アダム・ヴァウスハウプトが組織したバイエルンのイルミニティであり、1786年にはナポリにイルミナティのロッジが創られる。

その後、ナポレオンによる侵攻と撤退、再占領で大混乱をきたしたイタリアに、短命ながらイタリア独立運動の先鞭であり、後の共和国のモデルとなる二つの共和国が作られる。1798‐99年のナポリ共和国とローマ共和国である。ここで、イルミナティやイタリア・ジャコバン派が活躍することになる。

その後ナポレオン失脚と王政復興を経て、ヨーロッパ中で革命の嵐が吹き荒れた1848年、教皇が逃亡したローマで再び共和国が結成される。この第二次ローマ共和国で重要な役割を果たしたのがフリーメーソンであり、イタリアでは、18世紀後半、イルミナティのロッジが作られたのと同時期に、ナポリやローマ、トリノなどでフリーメーソンのロッジが多数出現する。

フリーメーソンというと何やら怪しげな響きがするが、18、19世紀のイタリアでは一種の政党のように理解されていた。実際、マッツィーニが組織した、イタリアではじめての政党「青年イタリア」も、秘密結社的で入会の誓いが必要であり当初はフリーメーソンのように見られていた。当時は、自由主義・共和主義者=フリーメーソンという図式が成り立っていたのである。ただし、最もフリーメーソンの思想を体現しているさえ言えるこのマッツィーニは、不思議なことにフリーメーソンには加入していない。イタリア統一運動の立役者カヴールも、赤シャツ隊を率いてシチリアに上陸したガリバルディもフリーメーソンの一員であった。

フリーメーソンの思想は、共和国を目指しキリスト教の神を唯一の神と認めないといったものだが、当然のことながらカトリック教会からは目の敵にされていた。それ故、カトリック教会は長い間、フリーメーソンによって作られたイタリア王国の存在自体を認めず、両者の反目が解けるのは1929年、ムッソリーニがフリーメーソンを弾圧して政界から一層した直後であった。

このように、イルミナティもフリーメーソンも、もともとカトリック教会の敵であった。フリーメーソンは第二次世界大戦後、キリスト教民主党およびカトリック教会の中にも入り込みPS事件のような陰謀事件が起こるのだが、イルミナティもその残滓は現在にも残っていると思われる。

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共和国記念日

日本は国民の祝日が先進国中一番多いそうだ。イタリアには確かに祝日が少ない。とはいっても夏に一か月ヴァカンスを取り、クリスマス2週間、復活祭1週間休むので一概には比較できないのかもしれない。このように休みはまとめてとるイタリアでは珍しいと言えるのかもしれない、単発の祝日の一つが昨日であった。

6月2日はイタリアの共和国記念日で、1946年のこの日、国民投票によって王政が廃止されイタリアは共和国として再出発することになった。この国民投票は国民がまっ二つに分かれ、共和制支持者:約1,272万票、王政支持者:約1,077万票と、200万票差で共和制支持者が勝利することになった。また、このとき白票が問題となり、体制選択国民投票を定めた法律では「得票数の多い方」ではなく「有権者の過半数」が選ぶ、と明記されているので、この票差は無効だという主張が王政派からなされた。

もっとも最終的には憲法裁判所が、法律の文言は「得票数の多い方」と解釈するのが妥当と判決を下した上、集計の結果、白票数は約150万票だとわかり、国民投票から半月以上もたった6月18日に共和制が確定する。そしてその間、両陣営では熾烈な争いが繰り広げられた。ともかく約45万票の差で、イタリアは共和制を選ぶことになったのだ。

1946年の段階で王室は不人気であった。これは1943年7月のムッソリーニ失脚後、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレⅢ世は、事務能力はある参謀長バドリオを首相にすえたのだが、すでに連合国がシチリアに上陸している一方、「同盟国」であるナチスドイツがイタリア侵入の機会をうかがっているという状況で、王室およびバドリオ政権が判断を誤り、その後2年弱もの間、イタリアを内戦の舞台に変えてしまったからである。

ムッソリーニ失脚後、戦争は継続すると声明を出したバドリオ政権であったが、ヒトラーはその声明をほとんど信用していなかった。そのような中、バドリオは秘密裏に英米と交渉を続けていたのだが、アイゼンハワーの強硬論に負け、ほとんど準備もしていないまま9月8日に連合国との休戦を発表する。寝耳に水のイタリア軍に対してかねてから用意のととのっていたドイツ軍は、またたくまにイタリア北部を占領。一方、王とバドリオは、イタリア国民を身捨てて、ローマから南伊のブリンディジに逃亡してまったのだ。

その後、イタリアを解放したのは、共産党・社会党・キリスト教民主党・行動党をはじめとした反ファシズム政党が結成する解放委員会と、それらに密接にかかわるレジスタンス運動であり、王の入り込む余地はほとんどなかった。

それにしても特記すべきは、このような王の”裏切り”にも拘らず、王制支持者が全イタリア人の半数近くもいたことである。いち早くファシズムおよびナチスドイツから解放された南部イタリアではほとんど内戦は起こらず、王の行動がそれほど”裏切り”とは見られなかったためか、国民投票でも南部の州では王制支持者が大半であった。また、相対的に工業が発展しておらず左翼の入り込む余地が少なかったことも理由に挙げられるかもしれない。

また、逃亡後いち早く実際の政権から身を引いたヴィットーリオ・エマヌエーレⅢ世はウンベルト皇太子を執政にした結果、国民投票は皇太子ウンベルトの執政法という形で実施されることになったのだが、国民投票直前の5月3日にウンベルト皇太子に王位を譲る。これによりウンベルトはウンベルトⅡ世として即位した結果、国民投票を規定したウンベルト執政法は無効である、との議論がされることになる。これは、王制支持者にとってプラスになったのかマイナスになったのかは何とも言えないところである。

1991年のマーノ・プリート(汚職摘発)で既存政党がほぼ壊滅するまで王党という政党があった。選挙では常に2~3%を占めていたのだが、この国民投票の結果を見ると、相当数の王政支持者が今でもイタリアにいるのかもしれない。

ちなみに、昨日の記念パレードではベルルスコーニ首相は20分ほど遅刻。イタリア分離を目指している(ふりをしている)北部同盟(LN)に属する、内務大臣ロベルト・マローニは欠席。逆に、ファシスト残党とも言われるイタリア社会運動(MSI)の流れを汲む元国民同盟(AN)(現在ANはベルルスコーニと自由の人民(PdL)を結成)に属する国防相イニャーツィオ・ラルッサは、イデオロギー的には共和制を受け入れられない(?)のであろうが、さすがに出席している。

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イタリアにとっての5月20日とは

 1882年、今から127年前の今日5月20日、イタリア王国はドイツ帝国(プロシア王国)、オーストリア・ハンガリー帝国と三国同盟を締結した。

 これはドイツ帝国宰相ビスマルクのフランス包囲網の一貫であり、伝統的にオーストリアと仲が悪いイタリアにとって外交上画期的な方向転換でもあった。

 現フランスのサヴァイアおよびピエモンテを本拠地とするサルディーニャ王国がイタリア半島を統一し、イタリア王国を成立させたのは、三国同盟締結のわずか20年ほど前、1861年のこと。このイタリア統一運動、いわゆるリソルジメントを成し遂げたのは、サルディーニャ王国宰相カヴールだといっても過言ではない。カヴールは1855年にクリミア戦争にサルディーニャ兵を送ることで、翌年のパリ会議で独立戦争に対するイタリアの立場をヨーロッパ中に知らしめる。また統一直前の1858年には、当時飛ぶ鳥を落とすほどの勢いだったナポレオン三世との二者会談にこぎつけ、独立戦争へのフランスの参戦を約束させる。

 そして、そのイタリア独立戦争の相手というのが、当時のロンバルディア(ミラノなど)やヴェネト(ヴェネツィア)を支配していたオーストリア・ハンガリー帝国だった。オーストリアに勝利し独立を手に入れたイタリア王国は、以後、ドイツ統一を競ってオーストリアと敵対していたプロシア王国と手を結ぶ。

 その後、プロイセン王国は、宰相ビスマルクの下、普墺戦争、普仏戦争に勝利してヨーロッパ1の強国になる。一方、イタリア統一の年(1861)にカヴールを失ったイタリア王国は、ビスマルク外交に翻弄され続け、1877年のベルリン会議の失敗を取り戻すべく、ビスマルクに誘われるまま、オーストリア・ハンガリー帝国と手を結んで三国同盟を締結することになる。

 この三国同盟は数度延長されることになるのだが、最終的には、三国のうちのどこかが攻撃された場合、他の二国には参戦の義務が生じるのだが、攻撃をしかけた場合は除くという但し書きがついていた。その但し書きが後の争点となる。

 1915年、今から94年前の今日5月20日、イタリア王国はドイツ帝国(プロシア王国)、オーストリア・ハンガリー帝国との三国同盟を破棄し、オーストリア・ハンガリー帝国に宣戦布告する。

 前年の1914年にオーストリア・ハンガリー帝国がセルビア王国に宣戦布告すると、同盟条約でがんじがらめ状態であったヨーロッパの列強は同盟条約を発動せざるを得ず、自動的に二つの陣営に分かれての大戦争に巻き込まれる。ただし戦争の準備ができていなかったイタリアは、オーストリアが一方的に宣戦を布告したということで、三国同盟から中立を承認される。しかし、各国とも短期で決着がつくと思っていた戦争が、前代未聞の総力戦よおび長期戦の様相を呈してくると、両陣営はイタリアを取り込もうと画策しはじめる。その結果、伝統的に反オーストリアの感情が強いイタリアは、統一後もオーストリア領として残っていたチロル地方やトリエステなどを戦後はイタリアに返すと約束したイギリスになびき、結局、三国同盟を破棄してオーストリアに宣戦布告することになった。

 ということで、5月20日は偶然にも三国同盟が始まった日でも終わった日でもあり、イタリアにとっては象徴的な日でもある。というのもこのイタリア王国の優柔不断さとある意味裏切りといえる行為は、第二次世界大戦時にも繰り返されるのである。

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イタリアの5月の首相および政党支持率

レプッブリカ紙が毎月行う世論調査によると、ベルルスコーニ首相の支持率が53%になり、アブルッツォの地震後の56%から3%下がった。これは、ベルルスコーニが18歳のモデルに入れ揚げ離婚を突き付けられたことと、リビアからの難民に対して厳しい態度をとったことに由来するという。

また、与党である自由の党(Pdl)および北部同盟(Lega)の支持率は50%のまま。対して野党である民主党(Pd)は33%、キリスト教民主・中道民主同盟(Udc)は34%、価値あるイタリア(???)(IdV)は41%の支持率だという。

さらに、移民に厳しい処置を下した内相マローニの支持率は斬減、対して経済相トレモンティは斬増したという。

支持率と言えば、ベルルスコーニは先月、支持率を指標にして「オバマ大統領より自分の方が上だ」と発言して顰蹙を買ったばかり。それにしても、イタリアと日本の支持率ってまったく違うと思った次第です。

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島尾敏雄について

 島尾敏雄の短編集(ちくま日本文学全集『島尾敏夫』)を読んで、先日、奄美大島を訪れたときのことを思い出した。元ちとせの出身地だという古仁屋まで足を伸ばしたのだが、古仁屋の港からはコバルトブルーの海を挟んだ対岸には加計呂麻島が窺え、複雑な形の入り江はまるで湖のように静かだった。その加計呂麻島は、太平洋戦争末期、特攻隊の基地があった島であり、島尾敏夫がその隊長として一年を過ごし、島の娘ミホと出会った場所でもあった。

 島尾敏雄にとって、この加計呂麻島での思い出はとても重要なものであったろう。

 件の短編集に所収されている短編は大きく次の3つのテーマに分けられる。

1 特攻隊長として過ごし、九死に一生を得た加計呂麻島時代(「出孤島記」など)
2 東京に来て精神病に罹った妻ミホ(「われ深きふちより」など)
3 夢と現の境があいまいになったような幻想(「夢屑」など)

 そして、この3つは島尾敏夫の人生の中で密接に関わっていると思われる。特攻隊長として周りから畏れ崇められつつ死と隣り合わせに生きてきた一年間が、日本の無条件降伏によって突如終わりを迎え、島尾は生きながらえる。特攻隊時代は平凡な日々への郷愁を抱きつつ、緊張感のある日々が日常になってしまい、いざ戦争が終わって平凡な日々が来るとその緊張感がどこか懐かしくなる。そうして夢と現がないまぜになったような状態を島尾は生き続けてきたのかもしれない。

 また死が約束されたような特攻隊長に毎日会いに来ていた島の娘ミホとは、死に別れるのが定めだと思っていた。しかし終戦となり、ミホを妻として迎えた島尾は念願であった平穏な家庭を築くことができた。だがそれもつかの間、精神病の発症により再び緊張の中を生きることになる。

 特攻隊というのは現在の我々からは、理屈でも分かっても感覚では決してわかるこのできないものなのだろう。後に自身も作家となり、ソクーロフの映画でも描かれている島尾ミホは「『隊長さま』(島尾敏夫のこと)は神様でした」といみじくも言っている。

 また興味深いことに、所収の短編『出発は遂に訪れる』で、日本の無条件降伏を部下の兵隊たちに知らせた夜、先任下士官が「あなたはご自分では気がつかないでしょうが、わたしから見れば、こう言っちゃなんですが幸福な環境ですよ。何不自由なく最高の学府を出してもらって」と島尾に詰め寄る場面がある。こうした自分とは違う出自・文化の人との根本的な断絶というのも、島尾敏夫のテーマの一つなのかもしれない。『川にて』では、癒しと安息を求めて奄美大島に帰ってきた島尾が、結局かつての”失われた生活”を取り戻せず、根本のところでの島人との断絶が描かれている。

 いずれにせよ、島尾敏雄の他の小説、特に有名な『死の棘』を読んでみようと思った。

死の棘 (新潮文庫)
Book
死の棘 (新潮文庫)
著者 島尾 敏雄
販売元 新潮社
価格(税込) ¥ 820

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イタリアの旧植民地とアフリカ難民

 リビア経由で地中海を渡りイタリアに辿り着いた難民を、イタリア政府が入国拒否してリビアに送り返した問題で国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)はイタリア政府に反対している。

 UNHCRスポークスマンのロン・レドモンドは「重大な懸念事項だ」と声明を出し、イタリア政府に送り返した難民を再び受け入れるように要請。「彼らは国際的な保護を求めている」とし、 1951年に採択された「難民の地位に関する条約」で規定されている「無拒否の原則」はいかなる地理的な制限も持たないと主張する内容の手紙をイタリア政府に送った。

 この声明は、先日、イタリアの上院議長フィーニが「国際法に則り、無法入国のボートピープルを受け入れることはできない」と発言したことを受けたもの。これはある意味論理的であり、フィーニが代表を務める国民同盟(AN)内に根強くある移民排斥の傾向とは分けて考えるべきかもしれない。

 UNHCRはまた、EU諸国の移民問題はわかるが、リビアは「難民の地位に関する条約」を批准しておらず、リビアに送り返された難民はイタリアなどが国際的な保護を与えるべきだとしている。

 興味深いのは、その際、リビア経由でイタリアに到達した難民として、ソマリアやエリトリアなどの国を挙げていることである。リビア、ソマリア、エリトリアの3国は第二次世界大戦後までイタリアの植民地だったが、イタリア、というよりファシズム政権が敗戦(1943年にファシズム政権が失脚したこともあり、イタリアは最終的には国連憲章107条、いわゆる「旧敵国条項」からは削除されている)したこともあって、イタリアから取り上げられた国である。この難民問題はイタリアのポストコロニアル問題と関係しているのかもしれない。

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12月1日のRepubblica

ヴェネツィアは冠水して大変そう。http://www.repubblica.it/2006/05/gallerie/cronaca/acqua-venezia-lettori/6.html

Acqua Alta ですね。寒いシロッコ(南西から吹くんじゃなかったかな?)のおかげで1メートル60センチにまで達したそうで、史上4番目の高さだとか。ヴェネツィアも、そのうち沈んでしまいそうな勢いです。

ヴェネツィアだけでなく、イタリアは全土で悪天候。フリウリ州では、風で壁が倒れたそうな。

ローマではバチカン政庁が、ホモセクシャルは罪ではないとするフランスから国連に提出された呼びかけを拒否しました。ミリオーレ枢機卿は、中絶に対しても、人類の罪だと主張しました。

一方、ベルルスコーニはスカイTVの月極め受信料の付加価値税を2倍にすると発表。ベルトローニなどは猛反対。スカイTVの反対キャンペーンも始まった。

ナポリ近郊ポミリアーノ・ダルコにあるFIATの研究センターを訪れているナポレターノ大統領は、不況だからこそ研究費を削るべきでないと主張。

などなど。今日のレプッブリカのニュースでした。

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カネッティ『眩暈』 Canetti "Die Blendung"

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著者:エリアス カネッティ
販売元:法政大学出版局
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エリアス・カネッティ(Elias Canetti)という作家は日本ではあまり知られていないけど、1981年にノーベル賞をとっていて、カフカ(Kafka)ブロッホ(Broch)ムージル(Musil)などと並び、20世紀初頭のドイツ語圏文学を代表する作家だ。

で、カネッティを含むここで挙げた四人の作家の共通点は、オーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルグ帝国)とドナウ川とウィーンとユダヤ人。ハプスブルグ帝国とドナウ川はセットになって、よくドイツ帝国&ライン川に対比されるんだけど、そうしたときのキーワードは多民族国家であるかどうかっていうことであって、ハプスブルグ帝国では、1861年にオーストリ・ハンガリー帝国となったことが象徴しているように、ウィーン(とブタペスト)を中心にまとまる多民族国家からなる広大な帝国であった。第一次世界大戦の原因もヴェルサイユ体制の成立と混乱も、元はと言えばハプスブルグ帝国の多民族性に由来しているといっても過言ではないだろう。

で、多民族ということは当然、多言語でもあるわけで、ブロッホを除く先の3人にもう一つ共通することは、3人ともドイツ語の作家でありながらドイツ語は母国語ではないということだ。これは意外なようで当り前のことであって、移民という問題も係わってくるが欧米の作家ではよくある。

で、カネッティは、ブルガリアのドナウ川沿岸、ルーゼという街の出身なのだが、彼の母国語はブルガリア語でさえない。スペインで行われた1492年のユダヤ人追放から逃れてきた先祖が話していた古スペイン語を、カネッティは幼少の頃話していたという。

ちなみに19世紀から20世紀にかけてのハプスブルグ文学、特に中心都市ウィーンの文化はとても豊饒で、池内紀なんかはそこらへんのことについてよく書いていて、興味深い。またクラウディオ・マグリス(Claudio Magris)というイタリアの作家・研究者がいるが、パプスブルグ帝国内のこれまた豊饒なユダヤ人文化を発掘し分析しており興味深い。

ところでカネッティはノーベル賞を1981年に受賞するのだが、代表作は何かというと、初期の作品『眩暈』(Die Blendung)であり、これは日本語でも翻訳されている。訳したのは池内紀であって、30 年以上前に訳したということもあって訳は古く読みにくいことは否めないが、カネッティの複雑で独特な文章をよく訳したなあと、感心してしまう。

『眩暈』は、「世界なき頭脳」、「頭脳なき世界」、「頭脳の中の世界」の三部に分かれている。

優秀で名声もある東洋学者ペーター・キーンは、周囲と係わらないように孤高を貫いて生きており、本だけが彼の現実である。しかしあるとき、誤解から自分より20歳も年上の家政婦テレーゼと結婚することになる(世界なき頭脳)。それを気にキーンは周りの世界と係わっていくのだが、お互い世間からずれていながらも自分だけはまともだと信じているキーンとテレーゼの二人は、誤解が頂点に達して、キーンが莫大な蔵書をおいて家を出ることになる。外の世界で傴のフィッツェルレと出会い、周囲の現実に巻き込まれてしまう(頭脳なき世界)。『眩暈』は、群衆に巻き込まれて狂気に陥っていく知識人を描いているのだが、群衆でもあり知識人でもある、キーンの弟、精神病院長をしているゲオルグの存在が重要となる。キーンの金をせしめるため、キーンになりすまして打った「僕は狂っている」というフィッツェルレの電報を受け取ったゲオルグは、兄キーンの下にかけつける。完璧な社会的人間で名声もあるゲオルグは、いつの間にか精神病院の患者と話すことが生きがいとなっており、兄も精神病患者と同じように扱ってしまう。キーンの話を自分なりに解釈し、首尾よく解決したつもりでパリに帰ってくるのだが、結局キーンの狂気はまったく治っていない。それもそのはず、社会に溶け込めず狂気になった群衆の一人である精神病患者と、社会を拒絶し、知性でもって群衆を超越しているキーンは、全く違うものである、ゲオルグにはそれが理解できなかった(頭脳の中の世界)。

Book オーストリア文学とハプスブルク神話

著者:クラウディオ マグリス
販売元:書肆風の薔薇
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クラウディオ・マグリスは、20年ほど前に、その名も『ドナウ川』(Danubio)という本を書いていて、毎年ノーベル賞候補になっているのだが、そこでカネッティと『眩暈』について触れている。マグリスはカネッティのルーゼの生家に行ってカネッティの自伝を読むのだが、そこでは、ほぼ処女作ながら唯一の大作『眩暈』についても、まだ有名でなかった30年前の自分についても、そして何がこのような特異な小説を書かせるようにしたのかなどについても、全く触れていない。マグリスによれば、この作品は、「まったく何も語らないと同時にあまりにも多くのことを語りすぐている」からだとういうのだ。

そんなわけで、マグリスのことはまた詳しく述べるとして、カネッティを始めとするハプスブルグ文学、ブルガリア文学、ユダヤ文学、カネッティ、などなどについては、ものすごく興味があるんだけど、全くわからないことだらけであるので、誰かに教えを乞いたいと切に願う今日この頃です。

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私たちの家で A casa nostra

フランチェスカ・コメンテチーニ(Francesca Comentini)監督の『私たちの家で』(a casa nostra)を見ました。

コメンチーニは、『パンと恋と夢』(Pane, amore e fantasia)の監督ルイージ・コメンチーニの娘さんで、親の七光か?と誰もが思ってしまうけど、それだけではなさそうでけっこう面白い映画を撮っている。

※参考までに

パンと恋と夢 DVD パンと恋と夢

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『私たちの家で』は、去年(2007年)のイタリア映画祭でも上映されたらしいので、日本でも知られているのだろう。

ミラノを舞台にお金が価値をもつ現代警笛をならす作品、みたいなことをコメンチーニ自身が言っていたが、そういったテーマは映画からあまり感じられない。それよりも、様々な人物をうまいこと絡み合せて、最後に「ああ、なるほど」と思わせるような作り方で、アルトマンの『ショートカッツ』の小型版のような感じで、面白かった。

銀行家のウーゴを演じたルーカ・ジンガレッティ(Luca Zingaretti)や財務警察を演じた主演女優ヴェレーリア・ゴリーノ(Valeria Golino)などもいい味を出していたが、やはり面白かったのはジュゼッペ・バッティストン(Giuseppe Battiston)。ソルダーティの作品などによくでてくるし、毎年のイタリア映画祭上演で、今年の映画祭では、一日観た3本全部に登場していたバッティストン。目が離せないです。

ちなみに、DVDには「作品を語る監督」というのトラックがあったんで見てみたら、ずっと映画を再生しながらコメンチーニが逐一解説してくれるというもので…気づいたら2回同じ映画を見てました。人物関係とかがよくわかりました。よくあんなトラック作ったなあ、と脱帽しています。

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エウジェーニオ・パチェッリ、ピウス12世(Eugenio Pacelli, Pio XII)

1943年7月19日、ローマの7大聖堂の一つサン・ロレンツォ大聖堂は空爆を受ける。崩れ落ちたサン・ロレンツォ大聖堂の瓦礫の中に毅然として立ち、絶望するローマ市民を勇気づける、白い法衣のローマ教皇ピウス12世(Pio XII)の写真がある。

まるで地上に降り立った神の使いのようなピウス12世のその姿は、10日後のファシスト大評議会で全ての権力を失うこととなる、イタリアの統領(ドゥーチェ)ムッソリーニ(Mussolini)とは対称的で、ローマの本当の主は誰なのかを知らしめるに十分であった。

ローマはカトリックの都であったが、ナポレオン侵略以来、教皇は実質的な力を持てずにいた。1948年には、ピウス9世がローマから逃亡したことにより、マッツィーニ(Mazzini)やガリバルディ(Garibeldi)らも参加したローマ共和国が、1年半という短期間ながら誕生してしまうほどであった。

そして、1970年には新生イタリア王国軍がローマを占領する。かつてローマから逃亡したピウス9世はヴァチカンに閉じこもり、カトリック教会はイタリア王国と敵対関係になる。以後60年ほど、カトリック教会はイタリア王国を認めず、イタリア王国もカトリック教会を正式に認めない状態が続き、1929年にピウス11世とムッソリーニがラテラーノ条約を結ぶことで漸く、カトリック教会およびイタリア王国はお互いを正式に認めることになる。

ラテラノ条約は歴代教皇の所在地であったサン・ジョヴァンニ・インラテラーノ大聖堂で結ばれた三つの条約の総称で、①ヴァチカン市国の成立させた条約、②経済条約、③”コンコルダート”と称される政教条約、から成る。これによりカトリック教会は経済的に一息ついたが、ファシズム政権の消極的な”協力者”とみなされてしまう。こうしてカトリック教会はファシズム政権に実質的に従属し、本当の意味で教皇が独立するのは、冒頭で触れたピウス12世期のムッソリーニ失脚後であった。

さて、前置きが長くなったが、その教皇ピウス12世について、大澤武男の『ローマ教皇とナチス』という本が詳しく述べている。

ローマ教皇とナチス (文春新書) Book ローマ教皇とナチス (文春新書)

著者:大澤 武男
販売元:文藝春秋
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ピウス12世の本名はエウジェーニオ・パチェッリ(Eugenio Pacelli)。生粋のローマ人で、家は代々教会法顧問として教皇庁に勤務してきた。

「ゆるぎない深い信仰を持ち、その名が示すように《敬虔》(イタリア語の”ピオ”は”敬虔”という意味)に徹した、高潔なピウス12世の人格を知れば知るほど、ナチス・ドイツに対する好意とその犯罪に対する沈黙は不可解というほかはない」という一文がよく表しているように、この本では、ピウス12世のドイツとの関わりやその反共産党・反ユダヤ主義の根本にあるもの、また、その結果としてヒトラー(Hitler)とナチスを最後まで批判できなかった理由と、そのことに対する良心の呵責と苦悩などが、多少図式的すぎるとはいえ、詳細に述べられている。

詳細なムッソリーニ伝を著した歴史家レンゾ・デ・フェリーチェ(Renzo de Felice)が、1929年~1936年までを扱った第3部第1巻の副題を「合意の時代」として、イタリア国民やカトリック教会のファシズム政権に対する「共感・合意」を分析して以来、イタリアでもファシズム政権を支持してさえいたカトリック教会側の罪について議論されることがある。

その「合意時代」の始まりの1929年というのが、先に述べたムッソリーニとカトリック教会による政教協定ラテラーノ条約(patti Lateranensi)が締結された年にあたる。一方、ドイツのナチスへのカトリック教会の「合意」を考える上で重要なのが、1933年7月の政教条約・コンコルダートである。

ナチス政権というのはイタリア・ファシズム政権よりもはるかに短く、ヒトラーが首相になったのは1933年の1月である。ナチスとカトリック教会がコンコルダートを結ぶわずか半年前であり、カトリック教会も諸外国も、反共の砦として、多少胡散臭くても目をつぶってナチス政権を歓迎していた時期でもあった。

ところで、ラテラーノ条約、ナチスとのコンコルダートとも前任のピウス11世が教皇のときに結ばれたのだが、この本の著者・大澤さんが指摘するように、前者はパチェッリ(ピウス12世)を引き立てたヴァチカン国務長官ガスパッリ(Gaspalli)が、後者はパチェッリ自身が国務長官として結んだものである。

イタリア、特にローマではピウス12世の人気はとても高く、ナチスとの関係を批判するときも何だかトーンが下がってしまっている傾向がある気がする。その点、この本の著者は、ドイツ・ユダヤ人史を専門にしていることもあってか、最終的にはナチス政権を名指しで批判したピウス11世と、ホロコーストを知っていながらも最後までナチスとヒトラーを批判しなかったピウス12世の違いを鮮明にし、苦悩しながらもナチスに妥協し続けたピウス12世の否を指摘している。また、クロアチアのパヴェリッチ政権を支持したことにも触れているが、これはあまり語られることがないが、ピウス12世を語る上では重要なことだと思う。

とはいえ著者は一方的に教皇を批判するだけではない。「沈黙した教皇をとがめるならば、連合国側のユダヤ人に対する冷淡な態度も同時に追及しなけらばならない」と言い、ナチスのユダヤ人迫害を止めることができなかった理由の一つとして、ヨーロッパ文化に潜在的に、そして深く根差す反ユダヤ主義を挙げている。

確かに、英・仏、そして米は、最後の最後までスターリンよりもヒトラーの方に親近感を持っていたようである。それは反共というイデオロギーの問題に加えて、人種的な問題も関係してくるのではないだろうか。

例えば、アウシュピッツなどドイツの絶滅収容所では人種のヒエラルキーがあったそうだ。大まかにいうと、ドイツ人>アングロ・サクソン>ラテン人>スラヴ人>ユダヤ人・ジプシーの順で差別化されていたそうだ。これはヨーロッパ人全体に今でも無意識に残る考え方ような気もするのだ。さらに言えば、汎スラヴ主義なども、こういった図式に対する反発と見ることができるかもしれない。

それでは日本人はどこに位置するのであろうか。ドイツ・イタリアの同盟国であったが、実際にヨーロッパ人はどう思っていたのだろうか?そして、ナチス政権、ファシズム政権、ともに中枢部に近いところにいたピウス12世、ひいてはカトリック教会は、日本という国をどのように考えていたのであろうか?

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