2014年1月24日 (金)

名護市長選挙と辺野古

2013年12月27日、仲井真沖縄県知事が辺野古の埋め立て承認を表明した。これにより、長年の懸案であった普天間飛行場移設問題が動き出すかに見えた。(沖縄タイムス12月27日より

しかし、年が明けた2014年1月19日の名護市長選挙で、辺野古移設反対を唱える稲嶺現市長が再選された。稲嶺氏は「(辺野古の)埋め立てを前提とする手続き、協議を全て断っていく」と明言している。(朝日新聞DIGITAL1月20日より

ちょうど仲井真知事が埋め立て承認を表明した翌日に、辺野古へ行く機会があった。辺野古の海は映像で何度も見たとおり珊瑚礁が続く本当にきれいな海で、10㎞程離れた東シナ海側の名護市中心部が沖縄とは思えない程寒かったのに比べて、辺野古がある太平洋岸は気温も高く暖かかった。


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辺野古港


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キャンプ・シュワブとの境界線


キャンプ・シュワブに隣接した辺野古港には移設反対運動のテントがあるが、そこに行く前に辺野古の集落に寄ってみた。集落の中心部を見ていると、ナポリ周辺の貧しい町を思い出した。町の人たちは穏やかそうで、道を聞けば親切に教えてくれる。その一方、崩壊しかけている建物もあって街自体に活気がないように見えた。目立つっているのは米軍専用のバーくらい。その当たりの細い道が入り組んだ街を、中学生くらいのヤンキーが3人徘徊していた。着ているものは全くみすぼらしくなく、話しかけたら気さくに答えてくれそうだったが、彼らが醸し出す雰囲気はまさにノーラとかカステッランマーレとかいったナポリ周辺の街にたむろしている若者のようだ。仕事もなくてどうしようもないけど、なんとかしようとも思っていない。単なる偏見でそう感じているだけではあるが。ともかく、彼らを見て辺野古移設反対運動をしている人たちとの間に何か接点はあるのだろうかと考えてしまった。


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辺野古移設反対運動のテント


辺野古の問題点の一つとして、一部の基地反対派の活動家と地元の人たちが乖離していることがあると、よく言われている。これは辺野古だけでなく沖縄県全体に言えることなのだろうが、県民所得が低く失業率が高い沖縄県の人たちにとっては、米軍基地による雇用は歓迎できることでもあるのだろう。移設反対の民意を示したとされる名護市長選にしても、どこまで地元の民意が反映されているのかという問題はどうしても残ると思う。名護市の中心部と辺野古の間には山があって、集落としては完全に分断されている。たとえば、「普天間基地の辺野古移設 反対する現地住民はいない」という記事でも触れられているが、名護市民全体が、中心部から遠く離れた辺野古の人たちの気持ちを代弁できるとは、言えない面もあると思うのだ。

今回、仲井真知事は、そのように名言してはいないものの沖縄への援助と引き換えに辺野古埋め立てを認めた形になってしまったため、今後も米軍基地撤廃と沖縄への投資がセットにされるのではないかと危惧されているようだ。これは前から問題になっている点でもある。反対運動をしている人の中には、基地反対を主張して騒ぐと金をもらえるので反対を叫んでいるという人もおり、新聞などのメディアも含めた沖縄のエスタブリッシュメント層も、そのような考えがあるという。沖縄が日本本土に搾取されているというよりも、沖縄の人たちが一握りの沖縄の富裕層に搾取されているという構図もあるようだ。

これは沖縄に行ってみると感覚的にわかる気がする。沖縄本島から離島には橋が架けられ、道路は不必要なほど整備されている。たとえば、うるま市の「海中道路」などはその象徴的な例ともいえるだろう。米軍占領時代、米軍の石油基地がある平安座島まで沖縄本島から直結する道路を作るために、橋をかけるのではなく、4.7㎞にわたって片側2車線の幅を埋め立てている。これは建築時に架橋技術が進んでいなかったせいでもあるが、建築業にとっては埋め立ての方が土木工事が増えるので喜ばしいことであろう。

これは辺野古移設にも言える。一時期、普天間飛行場移設先として辺野古沖ではなく、隣接するキャンプ・シュワブ内に飛行場を作るという案が出されていた。しかしいつのまにか議論されることもなくなり、辺野古沖の海上に飛行場を作るかどうかという選択になってしまっている。キャンプ・シュワブ陸上案は飛行線の問題などがあるようだが、それよりも土建業と関わりの深い前名護市長の島袋氏が、埋め立てなどの土木工事で需要を増やそうとして海上案を押し進めていたということもあるようだ。これについては、「普天間基地、辺野古移設問題を考える」で詳しく述べられている。

以上述べてきたことは推測も含まれているし特にキャンプ・シュワブ陸上案には反論も多々あるが、少なくとも土建国家のモデルから未だに脱却できていないことが沖縄の基地問題の根底にある、ということは事実だと思われる。

今回、辺野古港で反対運動をしている女性に話しを聞いてみたが、気さくではあるが真剣な顔で「仲井真知事が辺野古の埋め立てを許可したが、許可と実際の工事が始めることとは違う。工事が始まらないように、法的手段を含めてあらゆる妨害活動をする。私たちが負けるわけがない」と主張した。名護市長選で辺野古移設反対派の稲嶺市長が再任されたことで、工事差し止めは現実味を帯びてくると思う。しかし、土建国家のモデルを変えていかない限り、結局は根本的な解決にならないと思うし、むしろ米軍が沖縄にいることを沖縄側がますます望むようになるということも考えられるのだ。10年程前に完成したという辺野古反対運動のテントがある辺野古港にしても、珊瑚礁を破壊しジュゴンの生息地を奪ってまで、防波堤を作り十分なスペースをコンクリートで固める必要があったとは到底思えないのだから。そして、そのような工事の事例が、今回、沖縄のあちこちで目に付いた。

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2014年1月22日 (水)

レンツィ民主党(PD)党首

昨年12月に行われた与党イタリア民主党(PD)の党首選で圧勝したマッテーオ・レンツィ(39才、党首選時点では38才)は、年明け早々に「ジョブズ・アクト」と呼ばれる失業対策提案と、3パターンの選挙法改革提案とを相次いで発表した。

「ジョブズ・アクト」については、日経新聞に記事が出ている。なぜわざわざ英語のネーミングにしたのかはよくわからず批判されたりもしているが、内容は特に奇をてらったものではなく、日本よりも厳しい労働契約の緩和による労働市場開放と失業給付制度の刷新を求めている。

選挙法については、年明け早々に、各政党宛のレターを公開し、現行制度の改革も含む3パターンの改革案を提示して、他政党とのオープンな議論を呼びかけていた。その結果、年末に上下両院で議員資格を剥奪されて議員を辞職したベルルスコーニ元首相がレンツィとの会談に応じ、選挙改革を行うことに同意した。

ベルルスコーニ元首相は、議員辞職とともに与党「自由国民」から離脱し、元々「自由国民」の母体であった「フォルツァ・イタリア」を再建して政治への復帰を画策していた。そのため、レンツィと同じ民主のレッタ首相や、ベルルスコーニと袂を分かって新政党「新中道右派」を結成して政権にとどまったアルファノ副首相などから、単に政局に利用されただけだと批判が出ているようだ。

挑発的な言動で、ときには自党の大臣や幹部をも痛烈に批判するレンツィ民主党党首の人気は今のところ高いが、その反面、民主党内部も含む様々なところからの批判が絶えない。いずれにしても、しばらくはレンツィがイタリア政局の中心となりそうだ。

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2013年6月 4日 (火)

共和国記念日と大統領選挙

現在、イタリアの大統領(任期は7年)は、アメリカやフランスのように権限はないものの国家の元首であり、政治家としての最終キャリアとして位置づけられている。先日死去したアンドレオッティも大統領ポストを望んでいたし、2006年に元共産党幹部のナポリータノが大統領に選出された際には、当時野党であった中道右派勢力は何としても共産党員が大統領になるのを妨げようとしていた(もっとも2013年にナポリターノが再任を受け入れた際には、普段はどんなことでも共産党の陰謀と結びつけるベルルスコーニさえ積極的に支持することになるのだが)。

ところで昨日6月2日は、イタリアは共和国記念日の祝日であった。1946年、今から67年前のこの日に行われた国民投票によって、イタリアは王制を廃止し共和制を選択したのだ。その式典の際だかに、民主王のレッタ首相が大統領選挙制度の改正について言及し、人民党(ベルルスコーニの政党)から入閣しているアルファーノ副首相は積極的に同意を示した。

大統領選挙制度改革については、与党内でも野党内でも意見が分かれている。民主党では、閣僚の一人でもある(家庭大臣)ロジー・ビンディや最左翼のニキ・ヴェンドラが「必要ない」と答えている。一方、人民党と連合を組む北部同盟党首のロベルト・マローニも「無駄な改革だ」と述べている。もっともマローニら北部同盟にとっては、大統領の存在自体が必要ないのであろう。さらに例のごとく、今や第三党の党首となったベッペ・グリッロが「そんなことをやっている暇はない」と政権政党をひとまとめに批判しだす。イタリア政局はますますカオス状態になっていくのだろうなあ。

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2013年5月26日 (日)

アンドレオッティ元首相

2013年5月6日、元イタリア首相で終身上院議員のジュリオ・アンドレオッティがローマの自宅で死去した。94歳だった。

アンドレオッティの訃報に際して、前首相のベルルスコーニは「晩年のアンドレオッティは左翼系司法関係者の攻撃にさらされていた」とコメントした。ベルルスコーニとアンドレオッティを比べると、政治家としての特徴や性格、政治的傾向はまったく異なるが、ともに権力を握り何度も首相になりながら司法当局から起訴されたという共通点を持つ。脱税と未成年売春で有罪判決を受けたベルルスコーニは、ことあるごとに裁判官を「左翼に支配されている」と攻撃するが、アンドレオッティについても「左翼に迫害されていた」とコメントしている。「左翼はアンドレオッティの人格を攻撃してきた。しかも、自分たちの敵を悪魔と見なし、司法制度を使って迫害するという、文明国家にはあるまじきやり方での攻撃だった。私は、彼らのやり方をよく知っている。憎悪と妬みにかられた左翼は、選挙では勝てない相手に対しても同様に攻撃し続けているのだ」

一方、ナポリターノ大統領は、かつてベルリングエル書記長時代(1970年代後半にユーロコミュニズムを標榜しキリスト教民主党との「歴史的妥協」を押し進め、共産党の最盛期を演出した)の共産党執行部幹部として、当時のキリスト教民主党の首相であったアンドレオッティとやりあっていた。特に1976年、共産党を含めた挙国一致内閣を作り上げる過程では、お互い思想的にはまったく相容れない両党の代表として交渉を重ねてきた。そのナポレターノ大統領は、アンドレオッティの死に対して「歴史の判断のみがアンドレオッティの正確な評価を定めることができる」と簡潔に述べるにとどめた。

アンドレオッティはとかく毀誉褒貶の激しい政治家であり、第二次世界大戦後のイタリアを象徴する人物でもあった。1946年、27歳の時にキリスト教民主党から憲法制定議会(1946年6月から1948年1月までイタリア共和国憲法を制定するために選出された暫定議会。1946年6月、王制か共和制かを選択する国民投票と同時に選挙が行われた)に立候補して以来、67年にわたって国会議員を努めた。その間、首相には7回、外務大臣や防衛大臣を始めとする国務大臣には21回選出されている。

アンドレオッティを政治の世界に導いたのは、ファシズム時代に政権から弾圧されヴァチカン図書館に匿われていたデ・ガスペリと、カトリック大学連盟(FUCI)を担当していたモンティーニ枢機卿であったと言われている。

デ・ガスペリは、戦後40年以上に亘って与党としてイタリアの政権を担うことになるキリスト教民主党(DC)の創設者の一人で、1945年から53年までの8年間は、首相を務めた。第二次大戦後の混乱期に、左翼政党が強いイタリアが西側陣営の一員としてとどまり経済発展できたのは、デ・ガスペリのリーダーシップに負うところが大きかった。アンドレオッティの才能に目をかけたデ・ガスペリは(「アンドレオッティはすべてを可能にする」と評価していた)、当時20代のアンドレオッティを官房副長官に抜擢する。デ・ガスペリは、西側陣営に属し共産党を押さえ込むことこそが、壊滅状態に陥っていた戦後のイタリアが生き残ることのできる唯一の道だと信じていたが、その考えはアンドレオッティにも受け継がれている。

一方、デ・ガスペリにアンドレオッティを起用するよう推薦したのはモンティーニ枢機卿で、彼は後に(1963年)教皇パウロ6世となる。パウロ6世は第2ヴァチカン公会議を成功に導くなど評価が高い教皇であったが、一方で、特に晩年は、なにかと黒い噂がつきまとっていた。1970年代から80年代にかけて教会関係の金融機関が相次いで破綻し、ヴァチカンばかりかイタリア財政会を揺るがすスキャンダルへと発展するのだが、その破綻事件を引き起こしたミケーレ・シンドーナやロベルト・カルヴィを重宝したのが、パウロ6世であった。(彼らと密接に関わっていたポール・マルチンクス大司教をヴァチカン銀行総裁に推薦したのもパウロ6世である)

教会の金をつぎ込んだ挙げ句に銀行破綻事件を起こしたシンドーナは、サルバトーレ・リイナをはじめとするマフィアのマネーロンダリングを行っており、そのシンドーナを助けていたのが、ヴァチカン銀行の主要取引先アンブロジアーノ銀行頭取のロベルト・カルヴィであった。彼らはまた、反共の旗印のもとイタリア内外で陰謀事件を引き起こしたフリーメーソン・ロッジP2の頭領リーチョ・ジェッロとも懇意であった。(1981年に「P2事件」と呼ばれる、イタリア政界全体を巻き込んだスキャンダルを引き起こすことになる)

歴代の教皇と個人的な関係を築いてきたアンドレオッティは、教会の資産を管理していたシンドーナやカルヴィ、ジェッロらとも親交を持つようになる。そして彼らとの密接な関係によって(アンドレオッティはシンドーナを「リラの救済者」と称えた)、70年代から90年代にかけてイタリアで相次いで起こった陰謀事件にアンドレオッティは深く関わっていると疑われることになる。1982年6月17日、アンブロジアーノ銀行を破綻させた元頭取のロベルト・カルヴがロンドンで首を吊って死亡しているのが発見された。その4年後、次々と銀行を倒産させて米国で逮捕され、逃亡した後にイタリア国内で再び捕まったシンドーナが、獄中で服毒死する。彼らの死はマフィアが直接関係しており、その背後にアンドレオッティがいたのではないかと疑われているのだ。

マフィアとの関係のため、アンドレオッティは実際に起訴されている。1982年に国防省警察の反マフィア特別チームを率いていたダッラ・キエーザ将軍がシチリアで暗殺され、10年後の1992年には反マフィア特別判事のファルコーネ判事が、同じくシチリアで暗殺される。これらの事件についてアンドレオッティが絡んでいたとして、一時は有罪判決も受けている(最終的な判決は無罪)。さらに、1999年には、検察は別件のマフィア幇助罪でアンドレオッティに終身刑を求刑する。これは1979年、政治ゴシップ雑誌『OP』の編集長ミーノ・ペコレッリが暗殺された事件に関するもので、ペコレッリは、アンドレオッティとマフィアとの関係を特集した最新号を刊行する直前に殺害されていた。この事件も最終的には2003年に破毀院(最高裁)が無罪を言い渡すのだが、その裏で何らかの取り引きがあったと噂されることになる。

アンドレオッティの黒い噂はマフィアとの関係だけにとどまらない。1979年にアルド・モーロ元首相(友人でもあり、キリスト教民主党内の対立する派閥の領袖であった)が極左テロリスト集団「赤い旅団」に誘拐された際には、モーロが監禁先からの手紙で助けを求めたにもかかわらず、アンドレオッティはテロリストとの取り引きを拒否して、モーロを見殺しにしたと言われている。また、1970年に元サロ共和国(ムッソリー二がナチスに救出された後に北イタリアに作った傀儡政権)海軍将校ボルゲーゼが起こしたクーデター未遂事件も、CIAとともにアンドレオッティが関与していたとされている。このように相次いで起こった不可解な事件に、常に自分の名前が取りざたされることについて、アンドレオッティは皮肉を込めてインタビューに答えたことがある。「まだ若すぎた頃に起こったポエニ戦争を除いて、イタリアで起きたあらゆる事件の責任は私にあるようだ」

アンドレオッティはこのようなアフォリズムを多用し、皮肉とユーモアに満ちた受け答えをする政治家であった。パオロ・ソレンティーノ監督による映画『イル・ディーヴォー魔王と呼ばれた男』(2008年)では、そうしたアフォリズムを引用しながらアンドレオッティの人物像を淡々と語っている。ここで描かれているアンドレオッティは、権力を持った「魔王」と言うよりは、むしろ控えめで、敬虔なキリスト教徒ながら徹底したリアリズムを貫く政治家である。教会に行ってデ・ガスペリは神と話すが、アンドレオッティは司祭と話す、と言われたことに対して、「司祭は投票するが、神は投票しない」と返すアンドレオッティは、モノローグで述べている。「神の御心を理解しなければならないのと同様に、善のためには悪が必要だと理解しなければならない」。また、アンドレオッティの秘書は、「アンドレオッティはこの世には見る必要のないものがあるということを理解していた」と言う。「真実は正しいことだと皆が信じている。しかし実際には、真実とは世界の終わりだ。正しいという名目で世界の終わりを認めることなどできないはずだ」これはアンドレオッティ自身のモノローグである。

実際にアンドレオッティがマフィアと関係を持ち、暗殺を指示していたかどうかはわからないし、敬虔深く控えめな政治家であったアンドレオッティが、モーロが言うように「悪事を働くために生まれて来た政治家」であったのか、それともイタリアを救うために敢えて闇の部分に目をつぶっていたのか、ということについては評価が分かれている。いずれにせよ、アンドレオッティの死によって第二次大戦後のイタリア史におけるかなりの部分が、文字通り闇に葬りさられたのは確かであろう。

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2013年1月 6日 (日)

モンティ政権の改革

モンティ政権は実際に何を成し遂げたのであろうか。

モンティは、2011年11月9日にナポリターノ大統領から終身上院議員に指名され、5日後の11月14日に組閣、12月4日には総額300億ユーロ(約3兆円規模)におよぶ緊縮財政案を発表した。この財政案は12月6日に法律命令第201号「成長、公正及び財政再建のための緊急措置」として発令され、12月22日には国会の承認を受けた。

その主な内容は以下のとおりである:
・年金受給年齢の引き上げ
・年金のインフレ調整の凍結
・付加価値税率の引き上げ
・不動産税(固定資産税)の導入
・金融商品・贅沢品への課税
・州議会議員の削減
・公務員数の削減
・脱税対策(1,000ユーロを超すキャッシュ取り引きの禁止など)
・規制緩和と独占権の廃止

労働組合は当初この財政案に反対していたが、最終的には「経済危機の状況においてはやむを得ない」とみなして容認する。薄氷の思い出通した財政案について、モンティ首相は外国報道機関との会見で「この緊縮財政対策が承認されていなければ、イタリアはギリシャのように財政破綻に陥っていたかもしれない」と心情を吐露している。

さらにモンティ政権は労働市場の改革を目指し、2012年6月27日に、失業手当を拡充する代わりに企業が業績悪化時に従業員を解雇できるようにする法案を成立させた。この改革案には若年層の就労支援策(インターンシップを名目とした正規の契約を結ばない短期就労の制限など)や女性差別的な労働慣行(女性採用時にあらかじめ辞表を提出させ、産休が長期化した際などに、この辞表を根拠に事実上解雇するなど)の是正も盛り込まれていたが、労働組合は反発。すでに施行されている緊縮財政策の不人気も手伝って(政権発足当初は70%を超えていた支持率が、一時は30%を割っていた)、各地でデモも頻発する。この結果、当初は償金の支払いで解決することができるとされていた「経済的な理由(業績悪化など)による正社員の解雇」に、裁判所の判断による復職規定が加えられた。

モンティ政権の狙いは、イタリアの労働法で保護されていた雇用の調整を流動化させることで、外国企業を呼び込むとともに国内産業を活性化し、税収増につなげることであった。翌28日開かれたEU首脳会議でモンティはこの労働市場改革法案を発表し、EU各国のイタリア経済に対する不安を和らげることに成功する。その結果、国際社会におけるイタリアの信頼はある程度回復し、イタリア国債のスプレッド(ドイツ国債との利回りの差)も落ち着く。

しかし県の数を縮小整理する案は否決される。また、実質的な与党である自由国民(PDL)はモンティ政権の緊縮財政路線に反発を強めるようになり、10 月27日にはPDLリーダー、ベルルスコーニがモンティの財政政策を批判。PDL幹事長アルファーノはモンティ支持を表明するが、12月7日にはモンティ批判に転じて、「モンティの役割は終わった」と議会で発言する。この発言によって、これ以上の政権運営は困難と見なしたモンティは辞意を表明することになる。

もっともモンティが辞意を表明したのは、10月16日の法案提出より審議されていた財政健全化法案が、ようやく成立する見通しが立ったからでもある。とはいえ66日間におよぶ審議の結果、当初の提出案から大幅な修正がなされることとなる。

概要は以下の通りである:
・政府案で提出された個人所得税減税は削除され、代わりに子の扶養控除が増額。
・歳出額は上院での審議で倍増(150億ユーロから324億ユーロへ)。歳出項目も10〜20ほど追加
・出版・テレビ間の持株の禁止は2013年6月30日まで延期。
・政府案より、所得保証金庫と生産賃金補助金が増額。
・政府案より、失業者手当が増額。
・年金の有効性チェック規定が改定。
・全国保険基金を6億ユーロ削減。
・市への交付金を削減する代わりに固定資産税などの権限を市へ移譲。もっとも、モンティ政府が行おうとした県制度を市制度に合併する改革は凍結状態のまま。

週刊誌『レスプレッソ』はモンティ改革について、以下のように評している。

モンティ改革によってイタリア国民は、固定資産税(IMU)を払い(2,400億ユーロ、GDPの1.5%)、財政収支の印紙税を払い、付加価値税を多く払うようになった。また、年金の受給開始年齢は上がった上、支給額は減少。消費は15年前のレベルに戻り、失業者が急増。イタリア人の負担はかなりのものだったが、この犠牲にいつまで耐えればいいのかわからない。…議員数削減は棚上げで、県制度の廃止は骨抜きにされてほとんど意味がなくなった。

結局、モンティ政権下の1年間で、イタリア国債のスプレッド(ドイツ国債との利回りの差)と赤字削減はある程度回復したが、労働市場は改善せず成長も未だ見られないようだ。議会経費削減と県制度改革は議会の反対で中途半端に終わり、財政再建法案についても議会によって大幅に修正された。このままでは改革の評価も中途半端で改革の流れも変わってしまうと危惧して、モンティは続投に意欲を示すようになったのかもしれない。

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2013年1月 4日 (金)

イタリアの株価回復と次期選挙におけるモンティ首相

ロイターも伝えているように、米上下院で「財政の崖」回避法案が成立したことを受けて、イタリアの主要企業40社で構成されるFTSE MIB指数が3.8%上昇し(ユーロ圏で最大の上昇幅)、イタリア10年債とドイツ10年債との利回りの差であるスプレッドは283ベーシスポイントまで下がった。モンティ首相が就任時(2011年11月9日)に掲げた「スプレット(当時574ベーシスポイント)の半減」という目標が、ようやく達成されることになった。これで自信を持ったのか、モンティはテレビ番組で2月に行われる予定の選挙で対立候補となりうる自由国民代表ベルルスコーニと民主党代表ベルサーニからの批判に対して反論した。

モンティ首相は、次期選挙で中道勢力のまとめ役になる。しかしモンティ自身は、2011年11月に終身上院議員に任命されているため選挙を戦う必要がない。これはベルルスコーニに代わって政権を担当するためになされた措置であり、イタリアでは前例がないことではない。1993年4月のチャンピ首相、1996年5月のディーニ首相と、過去に2回のテクノクラート政権が誕生している。だが次回の選挙で誕生するのはテクノクラート政権ではなく、総選挙で勝利した政党(連合)の代表が首相となるため、選挙の洗礼を受けずに首相候補になる可能性のあるモンティに対して、モラル面からの批判もあった。

そもそも、モンティ自身もそれは感じていたため、自由国民(政権与党の一つ。モンティに首相を譲ったベルルスコーニが代表を努める)幹事長アルファーニの一言で2012年12月に辞任を決意した直後は、次期政権への不参加を表明していた。それが一転して出馬を表明することになったのは、左右どちらの陣営が勝っても、この1年間に行って来た政策がすべて否定される恐れがでてきたからだ。

中道右派では、モンティ政権が行った増税・緊縮財政政策を激しく批判する自由国民代表のベルルスコーニが復帰の意を示し(2011年11月の首相辞任後、引退を表明していた)、EUそのものを否定する北部同盟と選挙協力で合意した。

他方、中道左派では2012年12月に代表選が行われ民主党のベルサーニが決選投票を制して中道左派の代表になったが、決選投票を制するために労働組合(モンティ改革の「抵抗勢力」となっている)や、ヴェンドラ(左翼エロロジー自由党首。緊縮財政・ヨーッロパ主義を強烈に批判している)の力を借りなければならず、穏健派のベルサーニが政権をとっても、この両勢力の意向を無視する事ができなくなってきた。

モンティはEUの競争政策担当委員も努めた(競争政策担当委員としのモンティに関してはトム・リード『「ヨーロッパ合衆国」の正体』に詳しい)徹底したヨーロッパ自由市場主義であり、どちらの陣営が政権をとっても、自らが成し遂げた改革が振り出しに戻ると危惧したのだろう。

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2012年10月22日 (月)

イタリアの第二次世界大戦参戦について

1939年5月22日の、いわゆる鋼鉄同盟の締結により、イタリアは徐々にドイツの勢力圏に取り込まれていくように運命づけられた。ヒトラーがいかにムッソリーニを崇拝し、ムッソリーニがいかにヒトラーを毛嫌いし無視したがっていようと、二国間の軍事力の差は明らかであった。とはいえ1939年の段階では、イタリアは英仏を当てにできたとともに、英仏の軍事力は実際にはドイツを遥かに上回っていた。例えば、ドイツが同年8月に独ソ不可侵条約を結び、9月にポーランドに侵攻した際に、英仏がイタリアに譲歩して(絵北アフリカの領土割譲、エチオピア承認、チュニジアでのイタリア勢力の承認、ジブラルタル、マルタ、スエズに関する取り決め)即座にドイツに侵攻していればドイツ軍は太刀打ちできなかったろうと、ドイツの将軍たちも認めている。

ドイツは1939年9月にポーランドを占領した後、しばらくの間動かなかった。英仏両国はドイツに宣戦布告したものの実際には戦闘は行われず、奇妙な状態が半年以上も続くことになる。そして、1940年5月10日、ドイツ軍は突如、中立国であるオランダに侵攻する。この段階でヒトラーはイタリアの参戦を望んでいたが、ムッソリーニは中立を保った。52師団しかないドイツ軍が120個師団を擁する連合国に攻め込むことは自殺行為だとヒトラー配下の将軍たちも訴えていたようであるが、ドイツの機甲師団はマジノ戦を迂回し、アルデンヌの森を越えてフランスに侵入したため、裏をかかれた連合軍は瞬く間に壊滅する。予想外にうまくいったドイツの作戦を見て、イタリアは土壇場で対仏参戦を決めるという、最悪の行動をとることになる。ムッソリー二の参戦の動機は強欲だけでなく恐怖も影響していたと、ニコラス・ファレル『ムッソリーニ』(Mussolini, Nicholas Farrell, Weidennfeld & Nicolson, London, 2003, 柴野均訳、白水社、2011年)では述べられている。ムッソリーニはチャーノに向かって、中立でとどまることができると信じているイタリア人はいるのだろうか?どうやって中立を保つか教えてもらいたい、イタリアが後退できないのは明らかであり、鋼鉄と呼ばれる条約に調印したことが、ドイツに侵略される際には最後の頼みの綱になるだろう、と言っていたそうだ(p152)。

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2012年8月22日 (水)

リーダーの不毛地帯ー代表者不在の土地ー

『コッリエレ・デッラ・セーラ』紙(Corriere della sera)
2012年8月19日

最近(6月)のEU首脳会議でモンティ首相が果たした役割は、1950〜60年代にイタリア南部の有力政治家たちがとっていた戦略を思い出させる。それは「票を得るために故国を捨てる」つまりローマの権力に懸命に働きかけて国家の補助を自分の地盤に導き地元で名声を得るという戦略であった。

彼ら南部の有力者たちは、権力(特に財政面で)は中央にあるということを熟知し、そこを管理する一握りの人と関係を結べば(そして彼らの言葉を身につければ)権力に影響を与えられるということも理解していた。権力から利益を引き出して地元に戻れば、自分のイメージや票を「得る」ことができたのだ。彼ら南部の有力政治家たちは地元にのためも、第1共和制の間ずっとそうしてきたし、そのようにして失敗することはなかった。

状況も違うし、何よりも背景となる文化教養やスタイルが大きく違うとはいえ、イタリア首相モンティは彼らと同じ戦略を採用した。決断が下される場所に赴き話しをつける。モンティは、権力のサークルと接触し、関係を保ち、言葉を使うすべを心得ている。一見すると、慣れた普段の環境から飛び出して必死に頑張っているようにみえるが、実際は彼にとってより親しみのもてる環境にいるのであり、よい結果も出している。モンティは勝者の奢りなどは見せず、必要不可欠な存在であるといった雰囲気(イタリア中で、国際社会で動くすべを心得ているのはモンティしかいないということは、誰の目にも明らかである)でイタリアに戻ってきた。権力を持った国際社会でイタリアの首相がこれほど重用視されていることを歓迎しない人はほとんどいなかった。

しかし、ここでここ10年のイタリア南部の状況に目を転じると、結局は共通の文化や政治家の論理がなくなりリーダー層が貧困化してしまう危険について考えざるを得ない。ローマとの仲介による有力者たちはもうすでに存在せず、彼らの代わりに政治的不毛が横たわっている。対立もなければ提案もなく、政治綱領もない。そこには、ほぼ例外なく無様な個人的争いに収斂する権力闘争があるだけである。もはや地方では何もあてにできず、故国を捨てるほどの文化的・政治的才覚なども存在しない。

同様に、南部以外のイタリアでも「モンティ後」(誰もが出来る限り後に延ばしたいと思っている)に不毛な一角ができてしまう恐れがあるのだ。現在勢力を持っている政治家たちは政局を安定させ中期のプログラムを策定しようなどとはまったく思わず、彼らはまるで南部の現実のように不毛ではかない存在に見える。イタリア社会はこのような政治的空白に苦しみ、現実的に妥協をするべきか、それとも政治家の決定力不足に怒りの声をあげるべきかで、迷っている。

このように見るとすべてが曖昧なため今後何年間かイタリアは困難な時代を迎えると予測できる。外国の前線に駐屯するだけでは十分でなくなるだろう。リーダー層がしっかりとした考えを持って、社会・経済・政治に新たな活力を与えること、つまり国内の前線で「武装する」(集団の感情という意味でも)ことが必要となるのだ。さもなければ、巧みに交渉をしながらも間違った方向へ進んでしまう運命から逃れられないだろう。

ジュゼッペ・デ・リータ(Giuseppe De Rita)
(原文)
I TERRITORI SENZA RAPPRESENTANZA
Il deserto dei leader

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2012年8月15日 (水)

まじめなウォッチ・ドッグ(番犬) ー選挙キャンペーンと政党の政策

『コッリエレ・デッラ・セーラ』紙(Corriere della sera)
2012年8月9日

秋には長い選挙キャンペーンが始まるだろう。もちろん、どの政党も重要なことは何か自覚している。イタリア国民に目を向けるだけでなく、ヨーロッパの世論と国債市場にも訴えなければならないのだ。ドイツ、オランダ、フィンランドなどの国家が、要望を直接伝えてくるというわけではないが、これらの国の評価は、EUの決定に多大な影響を与えている。また、国境を越えて活躍する投資家は、イタリア国債を売買することによって「投票」に参加する。彼らの影響も絶大である。

イタリアのあらゆる問題は結局のところ、デフォルトを回避できるのか、それとも外国に救済を求めて国家主権への屈辱的な制限を受け入れなければならないのか、という選択に収斂する。たとえばフランチェスコ・ジャヴァッツイは、イタリアが懸命に努力するなら、まだ「自分たちだけで何とかできる」(『コッリエレ・デラ・セーラ』2012年8月4日)と主張している。来るべき選挙戦におけるそれぞれの政党の選挙政策は、この二者択一の問題にどう関わっていくかによって評価されることになるだろう。

ユーロ圏内の経済的強国の世論や市場の関心は、イタリア政府の統治能力と責任感である。統治能力は変更される選挙制度次第である。それ故、どのようなシステムに変更されても、選挙後すぐに首相と内閣を決定できるような安定的な与党を作り出せるような選挙制度に改革すべきである。

新しい内閣の仕事は、政党が提案する政策にかなりの程度左右されるだろう。イタリアでは選挙マニフェストは冗長だがごく一般的な内容で、政党連合を形成してそれを保つことくらいにしか役立っていない。一方イタリア以外の国では、マニフェストは専門的に細かいところまで議論されて作られ政府のプラットフォームとしての機能を果たしているうえ、「ウォッチ・ドッグ(番犬)」の役割を果たす独立組織も存在する。最も顕著な例として、オランダにはオランダ経済政策分析局(CPB:Netherlands Bureau for Economic Policy Analysis)があり、各政党の選挙政策をふるいにかけて調査し、現状からどう変わるのか評価する。例えば、ある政党の政策が実現される場合、国家財政、家計、企業の利益、環境などにどのような影響を与えるかなどを調査・分析するのだ。CPBの評価は選挙の2ヶ月前に公表される。一旦公表されればどの政党も口から出まかせを言えず、選挙の争いは、専門家の分析によって整理された選挙政策と各政党の政策の違いに集中するのだ。

政治政策を入念に仕上たりそれをチェックしたりする能力は、一朝一夕で身に付くものではない。数ヶ月後に控えたイタリアの次期選挙でいきなりオランダやドイツのような論争スタイルと質の高さに到達できるものではない。また外国から注目されることに慣れているとはいえ、今回は特にそれが厳しくなるだろう。上辺だけの議論で喧嘩早く、序論も結論もない単なる言葉のやり取りという、イタリアの論争スタイルは、今回は高くつく恐れがある。

これに対処するのは、何よりも、そして当然のことながら、政党自身の仕事である。特に欧州の経済危機に対応するために形成された現与党の役割でもある。専門家内閣という特徴を持つ現政府の役割も重要で、例えば政策の重要なテーマについて専門家の見地から実現可能な解決策を文書によって提示することもできる。

こうした政策プログラム(マニフェスト)は、結局は来春にEUに提出することになるであろうイタリア改革プログラムの準備作業を前倒してして行うに過ぎない。それ故、各政党には具体的なテーマについて実現可能な解決策で対応することが求められている。

さらにいうと、共通通貨ユーロの消滅やイタリアのユーロ脱退の可能性について言及し、その場合どれほどの損害が生じるかを数値を元に説明することも有益になると思われる。次期選挙では反EUを公に主張する政治グループがイタリアで初めて出てくるだろう。それらのグループには、提案内容を公にしそれがもたらす結果を証拠立てることが求められるだろう。

また敢えて言うまでもないことだが、各政党の提案がどれほど真剣かチェックする「ウォッチ・ドッグ(番犬)」の役割は、分野毎に枝分かれして市民や有権者が努めることもできる。選挙の結果、実際に恩恵受けたり犠牲を被ったりするのは有権者であるのだ。そして今回は特に、有権者の評価に外国の視線は注がれているのだ。

マウリツィオ・フェッラーラ(Maurizio Ferrera)
(原文)
CAMPAGNA ELETTORALE E PROGRAMMI
I cani da guardia della serietà

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2012年8月12日 (日)

イタリア統一 1848-61年

1848-49年にイタリア中で勃発した革命が失敗に終わった後、正統的な君主が復帰して「第二次王政復古期」が始まる。この時期のイタリア半島ではオーストリア帝国の覇権が確立し、国家内での改革の試みが阻止されて経済発展が抑えられた。そして君主と(中産階級の)世論との間の断絶は深まり、特に両シチリア王国及び教皇領(教皇国家)で顕著であったが、全イタリアで抑圧専横的政策が取られるようになった。

その中でピエモンテ王国の状況だけは違った。憲法制度が保たれていたことに加え、オーストリアとの平和条約(1849年8月のミラノ平和条約。オーストリアへの賠償金支払いを規定)承認に関する国家内の危機を乗り越えたダゼーリオ政権が国家の近代化に着手したのだ。特に教会との関係においては、1850年2月にはシッカルディ法が承認されカトリック教会の特権が廃止された。また同じく1850年にカヴールが農相大臣として初の政権入りを果たした。その2年後に首相となるカヴールは、自由競争の長所への信頼と新しい実践的自由主義の考えに刺激をうけ、広い文化的視野と経済問題についての深い知識を持った政治家であった。政府の軸を左側に移した(ラッタッツィと「同盟」を結んだ)カヴールは、何よりもまず自由貿易の導入による経済の近代化に着手し、国家による産業保護、信用制度の再編成、公共事業などの政策を行う。憲法に基づく自由の維持と経済発展、イタリアの他の国家からの亡命者の受け入れなどによって、カヴールが率いるピエモンテ王国はイタリア半島中の自由主義者の拠り所となった。

1848-49年の敗北の後も、蜂起による独立と統一への到達を目指すマッツィーニの不屈の活動は続いた。しかし彼の戦略に起因する失敗が相次ぎ、民主派の中でも次第にマッツィーニに対する批判が高まってきた。中でもピスカーネは「社会主義的」な考えによる国家解放を主張し、彼の一派はイタリア南部の圧迫された大衆に訴える。だがピスカーネが指揮したサプリ遠征(1857年)は、南部の大衆の反感によって悲劇的な結果に終わった。一方この失敗により、サヴォイア王家(ピエモンテ王国)との同盟が国家統一を成功させる唯一の道だと考えるグループが、民主派の中で力を強めることになる。(1857年にはマニンの提案により「国家連合」が創設された)

クリミア戦争及びパリ国際会議(1855-56年)へのピエモンテ王国の参加によって外交的成功を収めたカヴールは、イタリア半島からオーストリアを駆逐するためにはナポレオン3世の支持が欠かせないと確信していた。オルシーニによるナポレオン3世暗殺未遂事件の結果、(イタリアの愛国主義を重く見たナポレオン3世の意向によって)対オーストリア戦争を視野に入れたフランス・ピエモンテ間の軍事同盟が1858年にプロンビエールで締結された。この同盟のおかげで翌年4月の対オーストリア戦争はフランス・ピエモンテ同盟に有利に運んだが、ナポレオン3世が突然単独でオーストリアとビッラフランカの休戦条約を結んだため、ピエモンテ王国はロンバルディア地方のみしか獲得できずに終戦を迎える。エミリア、ロマーニャ、トスカーナ地方獲得のためには、イタリア北中部で反オーストリア暴動を起こすなど、新たな状況を作り出さねばならなくなった。

一方、休戦条約に不満を感じた民主派の人々は、(ピエモンテ王国から半ば独立して)イタリア南部への派兵によって闘争を続けようと考え始める。1860年5月にはガリバルディが千人の志願兵を指揮してシチリアに上陸し、ブルボン王朝軍を破って臨時政府を樹立した。初めはシチリア中で「解放者」を歓迎したが、何よりも土地所有関係の変化を望む農民の熱望により、そうした融和の時代はすぐに終わりを告げた。そして農民の暴動を恐れた土地所有者は、シチリアがピエモンテ王国に編入されるのを望むようになる。

ガリバルディはその後、カラーブリア地方に上陸しブルボン朝の首都ナポリを陥落させる。この状況でピエモンテ政府は、ガリバルディの遠征が国際問題に発展するのを避けるため、またサヴォイア王家がイタリア半島の状況を確実にコントロールできるようにするために、動かざるを得なくなる。軍を介入させ、ガリバルディ軍と南部国家をピエモンテに編入するすることで、南部の解放はカヴールの政策に従うこととなる。そして1861年3月17日に、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア王を宣言する。


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