2012年1月14日 (土)

サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン 青春と革命の時代』

今読んでいるが、翻訳も読みやすく純ういに面白い。

『スターリン 青春と革命の時代』Simon Sebag Montefiore Young Stalinは、『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』Stalin: The Court of the Red Tsar の続編で、後者は、まさにスターリンが権力を握ろうとする1930年代半ばからのスターリンを描いているのに対して、本作は権力を手に入れる前のスターリンの半生の研究である。2冊ともにスターリンの個人的な手紙や最近公開された様々な資料を元に、これまでは触れられることの少なかった生身のスターリン像が描き出されている。これまでのスターリンについての研究書は概して、政治やイデオロギーを分析することでスターリン像を逆に単純化してしまい、共産主義国家でありながら独裁主義国家でもあり、コスモポリタニズムでありながら国粋主義的でもあるソヴィエトへの理解を難しくしているように思える。対して本書の序文には、特異なソヴィエト体制というものを端的に表している一文がある。

実際、レーニン・スターリン主義の悲劇の多くのことに納得がいくのは、次のことに気づく場合だけである—ボリシェヴィキは、クレムリンに世界最大の帝国の政府を構えようが、あるいはチフリスの居酒屋の奥部屋で目立たない小徒党を立ち上げようが、同じ隠密スタイルで行動しつづけたのだと。

これと同じようなことは、前作『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』でも繰り返し触れられている。大粛正(テロル)、独ソ戦を経たソヴィエト政府の政策は、毎晩毎晩、夜が空けるまでスターリンの家で開かれた宴会で決まっていたのであり、モロトフもベリヤもフルシチョフも、そうした小さなサークルの常連であったのだ。

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2011年11月20日 (日)

宮崎正弘『中国が日本人の財産を奪いつくす』

徳間書店、2011年。+『出身地でわかる中国人』PHP新書、2006年。
日本ばかりか世界中の資源や領土、水を買いあさっている中国人。
蒙古族やウイグル、チベット族など周辺民族を「同化」(要するにジェノサイド)し、「超限戦」を駆使して中華思想を押し進める。しかし「中国」といっても内部での統一はまったくとれておらず、いわゆる国民国家といえるのかどうか非常に疑わしい。
2012年には胡錦濤に代わって習近平が国家主席になるだろうが、習近平の関心は現状維持と特権の保持のみで、民主化にはまったく興味はないという。そして経済格差が広がり国民の不満が高まってきているのに比例して、2010年の反日デモのような、官製デモを意図的に作り出してメディアで反日感情を煽ることがますます増えていくのだろう。

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2011年10月19日 (水)

息子の名前

名前を考えてブレーンストーミング中である。

日経アソシエによく載っているマインドマップみたいのものを作って(といっても十字に線を引いただけだが)、縦軸に五感をとって、お互いキーワードを言い合うのだが、コリン・ファース、インドヒッピー、軽い、カルバドス、サラサラ、ボサノボ、リップスライムなど、収拾がつかなくなってしまった。

なぜか琥珀という名前がでてきた。確かにいいかもしれない。桃太郎よりはいいかなあ。「琥珀はブレーンストーミングに合っている」というが、どうか?アマーロ、ドルチェ、南国観だそうな。昔ヤシの木は南国に生えていたという。うちの母親と嫁さんが電話で話していたら、木へんに光の「こう」を使えと言ったそうだが、そんな漢字はあるのか?すでに舞い上がっている模様。

やはりシングルマンのコリン・ファースのようなイメージがいいのではないか?とSartoriaという街角のおしゃれな人の写真をひたすら載せるサイトを見ていたら、名前がでてくるかと思ったらでてこなかった。琥珀とかけてアンバーマンと調べたら、カーティスアンドマルドーンがでてきた。けっこういいなあ。ということで、子供のテーマソングになってしまった。コリン・ファースなら、ヘレナボナムカーターと「パパパパパパ」と言って遊んでられるのに、って思ってたら、コリンは小倉優子になると言われてびっくり。

その他、南北、十二十一(山本五十六にあやかった)、寛三郎、達筆夫、などなどがでてきた。フルーツを使った名前がいいとかで、柑、梅、苺などを使ってはという意見もあり。

結局カーティスアンドマルドーンの「アンバーマン」をアマゾンで買って、今日のブレーンストーミングは終わった。

やれやれ。結局顔を見なければわからないと言う話しに落ち着くんだろうか。そうすると土壇場まで決まらず、土壇場でも決まらないんだろうなあ。生まれてから二週間以内に決めないと、自動的に太郎になると日本では決められている、と主張されたので、いっそのこと太郎でいいんじゃないかな?

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2011年10月10日 (月)

1935年までのファシスト・イタリアの対外政策の概要

石田憲『地中海新ローマ帝国への道―ファシスト・イタリアの対外政策1935-39』(東京大学出版会、1994年)p2-5より。

1861年のイタリア王国誕生以来、イタリアの対外政策にとって最も重要だったのは地中海であった。19世紀末の帝国主義国家間の争いにおいて、地中海では瀕死のオスマン帝国をめぐる領土争奪戦が展開された。しかし後進のイタリアの膨張政策は、常に地中海の要衝地を押さえていたイギリスを始めとする先発帝国主義国(フランス、オーストリア、ロシアなど)との交渉に左右され、イタリアの権益要求は、チュニス、トリポリはフランスによって(1878年ベルリン会議においてコンティ伯が「mani netti来よい手」によって、要するに何も要求しないことによって、フランスの北アフリカ進出が列強によって認められることになる)、アルバニアはオーストリア・ハンガリー帝国によって阻止されていた。

しかしロシア帝国の南下を牽制するために締結された、独墺伊三国同盟および地中海条約によって、イタリアは地中海における大国の一つとして認められるようになる。20世紀になるとアドリア海、エーゲ海にも進出し、1911年には伊土戦争(リビア戦争)によって、念願の北アフリカ沿岸の植民地を獲得する。

第一次世界大戦は、それまで当方に君臨していた東方の大国、オーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の解体をもたらし、長年弱い立場にあったイタリアは新たな機会を獲得したかに見えた。ところが実際は、英仏両国が蚕食する旧オスマン帝国領の「分配」や東南欧地域再編の「恩恵」にも与れず、十分な「報酬」も受けられなかった。このため戦間期におけるイタリアは、一方で戦勝国としての「正当な分け前」を要求しながら、他方では領土縮小に不満を持つ戦敗国の修正主義(ハンガリーやブルガリア)を支援することによって影響力拡充に努めた。地中海への新たな膨張と、中・東南欧域における勢力圏の形成を試みたのである。そしてこの時期におけるイタリア対外政策の基準点が、地中海において最大の軍事力と政治的影響力を持つ「海の女王」イギリスであった。ファシスト・イタリアは伊英関係における自らの位置を、「被保護国」から「パートナー」へと引き上げようとしたのである。

1920年代のイタリア対外政策は、基本的には自由主義イタリア外交の継続である。ムッソリーニは1925年1月にファシズム独裁を宣言したばかりで、国内では社会集団の解体再編(政党、労働組合、カトリック団体、商工業組合など)と非常独裁確立が急務であったので、外交政策にまでは手が回らず伝統的外務官僚の影響力が強くのこっていた。1923年のコルフ島事件に際しても、ムッソリーニは強攻策続行許さなかったし、マッテオッティ危機による国際的孤立も懸念されたので従来の外交の継承を対外的にも迫られていた。

1920年代がファシズム独裁の形成と国際協調の時代とすれば、1930年代は「非常独裁の恒常化」と対外冒険の時代と言えよう。一連の軍縮会議が頓挫した上、1930年10月にドイツの選挙でナチス党が勝利すると、ヒトラーを抑えられるのはムッソリーニだけだと見なされていたこともあり、イタリアがヨーロッパの均衡のための「決定的重し」になるとムッソリーニは計算していた。イタリアは一国では大国の中では最弱国の地位に甘んじるとしても、大国間の勢力均衡状態においては、その調整に決定的役割を果たすことができ、ファシスト・イタリアが主導権を発揮していっく基板は形作られたのである。

1932年にはグランディが外相を解任されムッソリーニ自らが外相に就任するとともに、伝統的外交官僚(スービッチ、アロイジ、グラリーリアら)の異動が行われ、併せてムッソリーニを脅しかえないファシスト・サブリーターたち(バルボやファリナッチら)も閑職に転任させられた。こうしてムッソリーニの個人独裁は対外政策においても貫徹可能となり、イタリアは自由主義期より繰り返し主張されてきた地中海への膨張を実行に移し始めたのだ。

またこの時期、国際連盟、ケロッグ・ブリアン不戦条約などの普遍的安全保障システムは、米国の孤立主義や大国間の思惑によって、徐々に機能しなくなりだた。こうした背景のもと、1933年7月15日に、ムッソリーニがイニシアティブを取ることによって米英独伊の四国条約が調印されることになる。この協定は、ドイツにとってはヴェルサイユ条約の限定的修正の承認であり、フランスにとっては中・東欧同盟体制(小協商:チェコ、ユーゴ、ルーマニアとの同盟体制)からの部分的撤退を意味し、イギリスにとっては、ドイツの台頭を他の三国によって抑制する第一歩と位置づけた。同時にイギリス政府は、当時最大の敵と見なしていた、東アジアで膨張を続ける日本に対抗するためにも、アジアと本国を結ぶ最短路である地中海の「平和」に固執し、伊英友好関係維持を死活問題と見なし始めていた。

こうして、イタリアは4国協定によって4大国の一角に食い込み、地中海・ヨーロッパにおける発言力を強化することができ、エチオピア戦争・スペイン内戦・第二次世界大戦によって破滅に至までのつかの間の「爛熟期」を迎えることになる。

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2011年9月29日 (木)

1947年のイタリア、デ・ガスペリと西側陣営への参加

1947年1月のイタリア共和国首相デ・ガスペリによる米国訪問は、第二次大戦後のイタリアの進むべき道を決定付ける出来事であった。この訪問時に、トルーマン大統領及びアスチンと会談したデ・ガスペリは、イタリアが西側陣営につくことを明言したのだ。日本がサンフランシスコ講和条約で主権を回復する4年前のことである。

面白いことに、デ・ガスペリ訪米時の外相は社会党(イタリア統一プロレタリア社会党:PSIUP)のネン二であったが、米訪問には同行していない。なぜならその時期、ローマ大学「サピエンツァ」で社会党全国大会が行われていたからである。この全国大会でサラガドら社会党右派はプロレタリア社会党(PSIP)を設立し、社会党から分離する。PSIPに参加した人数自体は少なかったものの、結果的には社会党の立憲議会議員の半数がサラガドに従うことになり、勢力を大きく削がれた社会党主流派は党員の結束を固めるためか党名をPSIUPからイタリア社会党(PSI)という戦前の名称に戻すことになる。しかし、そうした試みにもかかわらず、戦前・戦中に活躍したシローネらは第三の分離派を作り、結局はサラガドらに合流することになる。ネンニはイタリアが西側へつか東側へつくかという問題よりも、社会党内部の問題を優先させたと言えなくもないのだ。

一方、前年(1946年)11月の地方選挙では各地で共産党(PCI)が躍進し、キリスト教民主党(PD)や社会党(PSIUP)が議席を失うとともに、自由党や共和党など右派勢力が軒並み票を失っていた。それにもかかわらずデ・ガスペリは1947年2月の段階までは三党内閣を保たなければならなかったのである。その月にパリ条約が調印されることになるのだが、敗戦国なみの扱いを受けざるを得ないイタリアは、どのような条件でもイタリア市民が満足できる条約を締結できる見込みはなく、PSIおよびPCIが参加した内閣が条約を締結して責任を共有しなければならなかったからである。実際、西側陣営への参加を表明してアメリカから帰国するとすぐに、デ・ガスペリは内閣を作り直すのだが(第三次デ・ガスペリ内閣)、DC、PSI、PCI三党参加の内閣にせざるを得なかったのだ。もっとも外相には、戦前コルフ島事件などを解決した自由党系のスフォルツォを任命し、社会党、共産党には重要なポストを与えなかった。

この年の4月にはアメリカ国務長官(外相)マーシャルが欧州復興計画、いわゆる「マーシャルプラン」を発表する。デ・ガスペリは内閣から共産党・社会党を排除して第四次デ・ガスペリ内閣を形成し、マーシャルプラン受け入れを表明する。これでイタリアの西側陣営への参加は確実となり、ソ連とは距離を置いて2年後にはNATOに加盟することになる。

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2011年9月18日 (日)

1920年代後半のファシズムの文化政策

ファシズム政権は文化の面にも介入しようとしていた。1925年にジェンティーレを中心に『イタリア百科事典』の企画が発表され、翌1926年には「イタリア学士院」が創設される。

ファシズム初期の原動力は反体制と革命であったため、マリネッティを始めとした未来派が多数ファシズムに流れ込んできた。後の国民文化相ボッタイも1920頃は「ローマ未来派」誌の編集長をつとめていた程である。しかしマリネッティは1929年にはイタリア学士院会員となり、もはや保守体制側となったファシズム政権に取り込まれてしまう。

逆説的なことに、1920年代後半に親ファシズム路線を最も精力的に展開していた知識人マラパルテやマッカーリは、ムッソリーニにとっては最も扱いにくい文化人と見なされるようになる。なぜなら彼らはファシスト運動が持つ、反逆的で革命的な側面に熱狂していたからである。体制を破壊し英雄たちによる独裁を主張した左翼的な初期ファシズム神話は、財界、国王、教会と調停を計らねばならない1920代後半〜30年代前半にかけてのムッソリーニにとっては不必要なものだった。結局マラパルテは1929年に「スタンパ」紙の編集長に任じられ、ある意味、体制にとりこまれていくことになる。

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2011年9月14日 (水)

第一次世界大戦勃発時のイタリア

1914年6月28日に起きたサラエボ事件の報復として、オーストリアがセルビアに宣戦布告することが引き金となって第一次世界大戦が勃発したが、当初イタリアは中立を宣言した。「独墺伊の三国同盟は締結国が第三国に攻撃されたときのみ効力を発するのであって、締結国から一方的にしかけた戦争時には適用されない」というような理由で、独墺の参戦要求を断った。当時のイタリアは陸上でも海上でも、植民地でも、また産業でも市民組織でも文化面でも、列強諸国と対等にわたりあえる状態ではなかった。また、1882年から続くハプスブルグ帝国オーストリアとの同盟はトレンティーノ、ヴェネツィア・ジューリアをあきらめることを意味し、その代償のおかげで独墺以外の国友友好関係を結び、1911年リビアを獲得することができたのだが、一方ではそれらの地域は未回復地(イッレデント)の問題としてイタリア人のナショナリズムを煽る要素ともなっていた。そうした理由で、1914年に中欧諸帝国とともに戦争に巻き込まれる展望が起きたことにイタリア人のほとんどは熱狂せず、「ワルツのターン」と評されたイタリアの外交政策も否定できるものではなかったのであろう。

しかし短期戦と思われていた戦争が一年も続くと、当初期待されていた戦争特需もほとんどないまま逆に輸出先を失い原材料も入ってこなくなったイタリア国内の経済状況が悪化し、参戦論が主流となってくる。ここで重要な役割を果たすのは、イタリアの歴史上初めて主役となる中間諸階層であった。そして彼らに、これまでとまったく新しい演劇的ともいえる政治スタイルで訴えかけたのが、ナショナリストのロッコであり、社会党を離党したムッソリーニであり、国民的英雄に祭り上げられたダンヌンツィオであった。皮肉なことに、彼らは攻撃の対象とした社会主義政党が大衆へ訴えかけるスタイルを真似たのだ。

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2011年9月13日 (火)

1900年頃のイタリア社会党

イタリアで最も歴史のある政党は1882年に創設されたイタリア社会党である。しかし社会党が真に大衆政党となるのは(もしくは、汚職都市(タンジェントーポリ)の象徴とされたクラクシとともに創立から110年を過ぎて滅びるまで真の大衆政党には一度もならなかったと言うこともできるかもしれないが)第一次世界大戦後であり、1900年の段階では北西部の工業三角地帯およびポー平野の資本主義化が進んだ地域の農民、工場労働者、サービス業従事者、都市の中下層の中流階級が主な支持者であった。よって必然的にトウラーティやトレヴィスなど穏健派が主流となり、政局のために左翼を理解するそぶりを見せ続けたジョリッティと手を組もうとまでしていた。

一方、北部のプロレタリアートにとっては、マルクス主義的な社会主義は未来の天国を約束する一種の宗教のようなものであった。また貧しく不正に満ちた社会現実に憤慨する一方、リソルジメントを否定せずに、それを追求する中で、民衆を教育して生活条件を改善していこうと努力した。よって、彼らは国民感情と社会主義的活動が矛盾するとは思っていなかった。それ以外の地域の、取り残されて飢えに苦しむ庶民にとっては、資本主義や剰余価値、搾取といった言葉は何の意味も持たず、純粋に食料を欲しがっていた。この2つの世界の違いは、そのまま南北問題に当てはまるのだが、サルヴェーミニなどごく少数をのぞけば、それに気づいている指導層はいなかった。

改良派が党の舵取りをしていた1900年の総選挙で社会党は議席を増やしたが、党内での勢力がかわると、党としての意見がまとまらず、この後、社会党はどっちつかずの政策を進めていくようになる。そして1914年、第一次大戦に賛成か中立かという決断に関しても、なかなかはっきりとした態度は出せず、結局はムッソリーニが社会党を離脱して参戦論を主張することになり、彼に焚き付けられた大衆に引きずられて、参戦を容認してしまうのだ。

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2011年8月29日 (月)

1945年日米開戦直前まで、松岡洋右は対米交渉を粘り強く続けていた

1941年日米開戦直前まで松岡洋右は対米交渉を粘り強く続けていた。『月刊日本』2011年1月号、松崎哲久「日本百人の宰相 66 近衛文麿(1891-1945)」によると

(松岡は)日米諒解案の虚構を見抜いたのも、六月のハル提案に対する日本側対案を精力的にまとめたのも、職業外交官としての自負と責任感からであった。しかしこの絵の主観は、松岡外ししか眼中になくなっていた。七月二日には松岡の反対にもかかわらず、南部仏印心中を決定してしまった。

という。4月に近衛が個人的に交渉していた「日米諒解案」をめぐって松岡外相が激怒し、近衛・松岡の関係が疎遠になり、歴史的にみれば日米諒解案こそがハル国務長官の真意を見誤ったものであり、松岡が拒否したことで和平がつぶれたわけではなかったが、松岡が和平への障害だと思い込んだ近衛が、松岡を更迭するために内閣総辞職し、第三次近衛内閣を発足させたという。

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2011年8月 8日 (月)

金日成と朴正煕—満洲の朝鮮人—

五族共和を謳った満洲国では、朝鮮人は日本人に次ぐ民族とされて士官学校や官吏登用への道も開かれていた。朝鮮は当時すでに大日本帝国に組み込まれていたこともあり、多数の朝鮮人が満洲に移住したものの、漢人や女真人、モンゴル人からは日本人の手先とみなされ、厳しい立場に置かれた。

後に朝鮮民主主義人民共和国を建国する金日成も、そうした満洲の朝鮮人のひとりである。もっとも金日成は7歳のときに家族とともに満洲の吉林に移住するのだが、当時はまだ日本の支配は及んでいなかった。満洲事変が勃発した1931年、金成桂(後の金日成)は19歳で中国共産党へ入党し、25歳のとき(1937年)中朝国境の町、普天堡攻撃で抗日パルチザンの「将軍」として一躍有名になる。1940年の日満軍によるパルチザン討伐作戦で、金日成の部隊は壊滅。彼自身はソ連へと逃れ、日本の敗戦と同時にスターリンによってソ連支配下の朝鮮北部の指導者として送り込まれることとなる。

金日成は満洲国の教育機関に属したことはないようだが、日本人と関係がなかったわけではないだろう。北朝鮮初期の側近には日本人がいたと言われているし、孫の金正恩(息子・金正日の後継者)を育てたのは横田めぐみだという説もある。ソ連では野坂参三にも会っているようでもある(トリアッティとは時期的にぎりぎりかぶるが、あっていたかどうかは定かではない)。さらに金政権は日本天皇制および満洲国をモデルにした政権だということを考えると、金日成は日本をむしろ意識していたのだと言えよう。

ところで25歳でパルチザンの伝説的な英雄になったという件は、どこか引っかかるものがある。金日成が凱旋したとき、あまりにも若い「将軍」がたどたどしく演説するので、迎える民衆はとまどったという。実際、金日成の伝説はスターリンが意図的に作ったものだとも言われている。金成桂(後の金日成)はもともと金一星(キム・イルソン)という名前でゲリラ活動をしていたので、抗日ゲリラの「伝説の将軍」金日成と同じ発音であることに目を付けたソ連軍が、金成桂を「金日成」にしたてあげて朝鮮に送り込んだというのだ。確かに金日成は共産主義独裁国家を率いるには最適な人物で、後に金日成が行う粛正は、まさにスターリンを彷彿とさせるものである。

金日成より5歳下の朴正煕も満洲の朝鮮人であった。朴の場合は、貧しい農村に生まれたが成績が優秀であったため、日本人教師の勧めにより1940年に満洲へわたり、新京士官学校で教育を受けることとになる。士官学校を主席で卒業した朴正煕は、選抜されて日本陸軍士官学校へ入学。折からの創氏改名によって高木正雄と名乗り、陸軍士官学校を3位の成績で卒業。満洲軍中尉として満州国軍歩兵第8師団に配属されたところ終戦を迎える。

朴はその経歴からわかるように生涯親日だったと言われている。朴の兄は共産党幹部であり、1946年の暴動で警察に殺害された。朴自身も共産党員であったが、逮捕されて転向し、朝鮮戦争時に米軍に北朝鮮の内実を伝え軍役に復帰している。クーデターで大統領となると、日本をモデルにした経済政策を行い経済発展を実現させる。朴政権時代、韓国は北朝鮮を経済的に追い越し、現在の韓国の基礎が築かれた。日本の高度成長経済は満洲国の計画経済をモデルにしたものだと言われているが(岸信介など満洲で計画経済を押し進めた官僚、経済人が、実際に高度成長経済政策を行っていた)、朴のモデルにも満洲国があったのかもしれない。また共産党時代には金日成との接触があった可能性はないのだろうか。朴と金日成はともに国家元首として互いに激しくののしりあうような敵対関係となるが、お互いに相手のことをよく知っていたということは考えられるであろうか?

戦後、おそらく現在でもそうだが、東アジア政治外交史にとって満洲国は多大の影響を与えているのだろう。

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